写真のお品物は、先日いわの美術でお買取いたしました、平福百穂(ひらふく ひゃくすい)の掛け軸です。
秋田蘭画が流行した角館に生まれ、伝統と革新の日本画家として活躍しました。
平福百穂の代表作のひとつである六曲一双の屏風「豫譲(よじょう)」は、2020年に重要文化財に指定され、東京国立博物館での展示を控えています。
平福百穂は1877年に秋田県角館町に生まれました。この地には江戸中期におこった秋田蘭画という洋風画派があり、平福百穂の作風と生涯に大きく関わっています。
同じく画家であった父・平福穂庵から13歳のとき絵を本格的に習いはじめるものの、その矢先に父が急逝しました。
平福穂庵は幼少期から絵を能くし、郷里の四条派画家である武村文海に学び、16歳で京都に遊学し社寺に伝わる古画の模写や風景静物の写生により画才を磨きました。
22歳で帰郷一時は家業の染物の上絵描きの仕事をしていましたが、その後代表作となる「乞食図」が第3回秋田博覧会で一等入賞し、龍池会主催の第2回観古美術会でも褒状を得たことで、中央画壇でも知られる存在となりました。
宮内省へ献上する画帖揮毫者への選出や、絵画雑誌「絵画業誌」の編集と古画の模写を担当するなど、中央画壇の仕事で活躍しました。
47歳で急逝し画家人生は長くないものでしたが、写生を重んじる精神と、中央画壇への道筋を子の平福百穂に示しました。
角館の豪商である那珂家には、平福百穂の約150年前に隆盛した秋田蘭画の名品が所蔵されており、平福百穂もこれを目にする機会があったとされています。
秋田蘭画と、帰郷した父の教えを経て本格的に画家を目指すようになり、父が死去すると追悼会出品作の出来栄えから後援者に画家を継ぐよう助言されます。
1894年に上京すると丸山四条派の第一人者である川端玉章に師事し、1899年に東京美術学校を卒業、その後一旦故郷へ戻ることとなりました。
1900年に玉章門下で共に学んだ結城素明らが東京で无声(むせい)会を組織すると、平福百穂も提唱された自然主義に呼応し、秋田に在りながらこれに参加しました。
当時日本美術院の主流であったロマン主義的な歴史画とは対照的な作風を貫きます。
翌1901年にふたたび上京し、現在の新潮社である新声社に勤め、絵と並び歌人としても活躍しアララギ派歌人と二足の草鞋の生活を送るようになります。
1907年からは国民新聞社に勤務し、この頃は1915年の「朝露」など自然を端正に描いた作品を残しています。
1916年に无声会で志を一つにした結城素明や鏑木清方、松岡映丘らと金鈴社を結成すると、引き続き西洋風の自然描写を日本画に取り入れながらも中国の南画などにも関心を抱き、次第に古典回帰していきます。
1917年の文展で特選となった「豫譲(よじょう)」は、史記の刺客列伝の一節の場面を描いたもので、中国故事や古典主題への関心がうかがえ、現在も代表作の一つとなっています。
1926年「荒磯(ありそ)」は、岩場に打ち付ける波飛沫や海風が簡潔な楮に表され傑作の一つとなり、1928年の「玉柏」は見事な木々の重なりが描かれ、南画や大和絵、琳派の素養も取り入れた百穂の作域の広がりを示してくれます。
この頃の絵画以外の仕事に岩波文庫の装丁デザインがあり、カバー下の唐草文様、壺と岩波のマークが1927年の創刊から現在まで変わらず採用されています。
1929年に現在の武蔵野美術大学である帝国美術学校の日本画科教授に就任し、同年琶湖畔の堅田へ写生に赴き、そこで描いた「堅田の一休」は帝国美術品展に出品され傑作の一つとなっています。
1932年に発表された代表作「小松山」では自然主義と古典が見事に融合し、平福百穂のひとつの到達点を迎えますが、その翌年東京と秋田の画壇と歌人の大勢に惜しまれながら急逝しました。
没後、医学博士となった長男の尽力により作品が集められ、平福記念美術館に納められています。
中央画壇での活躍が始まってからも故郷秋田を大切にした平福百穂は、秋田蘭画の研究を半世紀にわたりライフワークとしていました。
美術雑誌への寄稿を重ね、1930年に『日本洋画曙光』を刊行し、秋田蘭画研究を纏め世に広く知らせるものとなりました。
平福百穂がこの一冊を上梓した時点では、現在秋田蘭画の代表作品として知られる「不忍池」はまだ発見されていませんでしたが、それ以前に発表した8篇の秋田蘭画に関する論考でも、秋田蘭画の概要を的確に押さえていました。
これは新声社の同僚であった国府犀東が、大学の恩師である狩野亨吉に秋田蘭画を見聞きし学んでいた事が、少なからず影響がしていたと考えられます。
秋田蘭画は江戸中期に現在の秋田県で興った西洋絵画に影響をうけた一派です。
藩主の佐竹曙山(さたけしょざん)が財政再建のため1773年に平賀源内を招聘し、
持ち込まれた蘭学に関係しています。
蘭学は当時最新の西欧先進技術が網羅し、ルネサンス期に成立した絵画の各種遠近法も、現代のように芸術というより科学的な技術としてその範疇にありました。
また、徳川吉宗によって1730年代に清より招かれた画家・沈南蘋(しんなんびん)から波及した南蘋派の影響も受けたと考えられています。
秋田蘭画は西洋絵画の遠近法と構図を、純日本的な画材にプルシアンブルーなど舶来画材を少々足すという、和漢洋折衷の特徴を持ち、江戸中期の日本ならではの進化をとげた特異な様式でした。
平賀源内の西洋画法は直接教授されたものではなく、挿絵の模写などによる独学でした。
平賀源内が角館の宿所で屏風絵に感心し呼び寄せた作者が小田野直武で、
技量を変われ遠近画法を教わり、それ以上を会得することができた画家としての能力の高さゆえに秋田蘭画の隆盛に至ったと言えるでしょう。
平賀源内は遠近法を江戸でも教えたとされますが後継者に恵まれず、秋田では佐竹曙山とその子の佐竹義躬(さたけよしみ)、小田野直武(おだのなおたけ)を中心に一様式として完成し、小田野直武から司馬江漢へ受け継がれていきます。
平福百穂の作品は制作時期や品物によって作風が様々です。重要文化財などに指定されているのは屏風絵など大作ですが、小品でも多くの日本画を残しています。
大部分は一般的な日本画の飾り方として、軸装されて掛け軸となっています。
現在の中古美術市場では掛け軸の形での流通が多く、以下の品物は高評価の可能性が高くなります。
・シミ焼け等ダメージが少ない
・花鳥の主題
・双幅
・書付のある桐箱入り
いわの美術では骨董品・美術品を中心にお買取しており、掛け軸・日本画はとくに力を入れております。
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