《天目茶碗》
長石と石灰岩、鉄イオンを原料とする釉薬を使用します。陶土は鉄分を多く含み、高台を除く全面に
艶のある黒釉が厚く掛かっているのが特徴です。
鉄釉を用いて焼かれた陶磁器は中国においては周の時代まで遡りますが、本格的な製造は東晋期に、
現在の浙江省天目山の禅院にあった徳清窯で焼かれたものであるとされており、白磁や青磁と違って、
酸化焼成(燃料が完全燃焼するだけの十分な酸素がある状態で焼かれること)でも、
還元焼成(酸素が足りない状態で言わば窒息状態で燃焼が進行する焼き方)でも見た目に大差が出ない
ため、黒磁の生産は比較的容易で日常用の陶器として各地の窯で焼かれています。
《作家紹介》
1961年(昭和36年)-1992年(平成4年)
神山賢一は、母で同じく信楽焼作家の神山清子の影響で幼い頃から陶芸が身近な環境で育ちます。
薪を割ったり、土を運んだり、神山清子にとっては助手のような存在でした。
信楽工業高校(現:信楽高校)を卒業後は、信楽窯業試験場で3年間働き、ロクロや釉薬・石膏など
陶芸の基礎を学んだあと神山清子の元に帰ってきます。
釉薬の魅力に魅せられ、また身近で母である清子が信楽自然釉にこだわるのに対して、神山賢一は
釉薬研究をし、その可能性を求めて作品を作っていきます。
なかでも上で紹介した長石と石灰岩、鉄イオンを原料とする釉薬に興味を持ち、鉄釉を使用した
天目茶碗の制作に力を注ぎました。
1990年(平成2年)、29歳の誕生日を迎えた数日後、腰の痛みを訴え病院へ搬送され、検査の結果
慢性骨髄性白血病の診断を受け、闘病生活を余儀なくされます。
母・姉とも型が合わず、この当時はまだ骨髄バンクなどが存在しなかったため、知人たちによって
『神山賢一を救う会』が結成され、ドナー探しや募金活動が始まりましたが、ドナー希望者が3000人
近く集ったものの適合するドナーは見つかりませんでした。
『神山賢一を救う会』の中核となる『骨髄バンクと患者を結ぶ会』を発足し会長に就任。
積極的に自身も骨髄バンクの設立に向けて奔走します。
体調を見ながら信楽での創作活動を続けていきますが、急性白血病へと転化し、完全には一致しな
かった叔母の骨髄移植を受け、体調が一時は改善に向かいます。
しかし僅か2年後の1992年(平成4年)に病が再発し、わずか31歳の若さでこの世を去ります。
こちらは余話ですが、2019年に放送されていた信楽が舞台のNHKの朝ドラ『スカーレット』が、
私達の記憶には新しいところです。
神山賢一氏の史実はドラマの中ではあえて壮絶な描写部分は描かれていませんでしたが、実際には
とても困難なものだったことがわかります。
亡くなる直前、神山賢一は、母のこだわりでもある自然釉に"自分でも挑戦をしてみたかった…"と、
つぶやいたことがあったそうです。
志半ばで母に看取られ最期を迎えた神山賢一。母である神山清子の作家としての部分に敬意を持って
いたことが存分に伝わってきます。