今回いわの美術では、明治時代から昭和に活躍された陶芸家、河井寛次郎の茶碗をお買取り致しました。
1890年島根県に生まれた河井寛次郎は、中学の頃から陶芸家を目指し、高校卒業後東京高等学校の窯業科へ進学します。
高校では窯業科で指導を行っていた陶芸家の板谷波山の指導を受けながら、窯業の科学的研究も行っていました。
東京高等学校在学中には、同校二学年下に居た陶芸家の濱田庄司と意気投合し親交を深め、高校卒業後は、京都にある陶磁器試験場へ濱田庄司と入所し、釉薬や中国陶磁の研究を行いました。
ちなみに河井寛次郎と濱田庄司が研究した釉薬の数は一万種以上にも及ぶと言われています。
その後河井寛次郎30歳の時、清水焼の陶工である五代目清水六兵衛の技術的顧問を務めていた事がキッカケで、京都にある五代目清水六兵衛の窯を譲り受ける事となり、鐘渓窯という名を窯につけ、自身の作品制作を始めました。
ちなみに鐘渓窯では、主に中国や韓国の古陶磁器を参考にして作品を製作していました。
鐘渓窯を譲り受けた翌年、東京と大阪の高島屋で「創作陶磁展覧会」を開き、自身の研究の成果を発揮した作品を出品し、名人級の作品であると高評価を受けます。
ですが、月日が経つにつれて自身の作品と世間の評判に違和感を覚えていった河井寛次郎は、思想家、柳宗悦が収集した作品で開いた「朝鮮民族美術展」という展覧会で李朝作品を見て感銘を受けたそうです。
李朝作品を見てから「自分の作品は衣装であり化粧であり、中身の体はどうしたのか、心がけはどうしたのか」と思うようになり、その後作品制作を中断し自問自答しながら数年過ごします。
1924年、濱田庄司の紹介で柳宗悦と出会いそこで民藝理論を聞かされた河井寛次郎はその考えに共感し、自身の作品を一変して新たな作品制作を開始しました。
その後、濱田庄司と柳宗悦と共に日本民芸美術館設立趣意書を発表し、美の生活化を目指し民藝運動なども盛んに取り組んでいきます。
その中で河井寛次郎は、日本や海外など様々な場所で見た陶磁器のデザインなどを持ち帰り、日用品に釉薬の技術を生かして新たな作品へと生まれ変わらせました。
第二次世界大戦後には、作品の幅を広げる為木彫作品も手がけます。
その後も釉薬や造形の創作意欲は衰える事なく様々な作品を製作し、これまでの功績が認められ文化勲章、人間国宝、芸術院会員などに推薦されましたが、全て断ってしまったそうです。
亡くなるギリギリまで作品制作を続けていた河井寛次郎ですが、76歳で惜しまれつつこの世を去りました。
河井寛次郎 茶碗
今回お買取りしたお品物は河井寛次郎が作り上げた茶碗です。
筒描きと呼ばれる技法を用いて花の模様を描き、上から茶色い釉薬をたっぷりとかけたシンプルでありながら美しさを際立たせる素晴らしいお品物となります。
筒描きとは、絞描とも呼ばれ竹筒に先を細くした注口を付けてその中に泥漿と呼ばれる泥状の土を入れて模様を描く技法です。
この方法で描いた模様はぷくっと浮き出たようになり、江戸期頃から筒描きの技法は存在されたそうです。
この作品は、共箱付でお品物の状態も良く、シンプルかつ美しい事から河井寛次郎が作風を一変させた後に作られた物と推測され、高評価でのお買取りとなりました。
弊社いわの美術では、河井寛次郎の作品の高価買取を行っております。
遺品整理やコレクションの整理などで河井寛次郎の作品が出てきましたら、是非いわの美術でお買取りさせて頂きます。
弊社いわの美術では、河井寛次郎の作品以外にも河井寛次郎が学んだ学校の教師板谷波山や、親交を深めた濱田庄司が作られた作品もお買取り強化しております。
買取可能なお品物
茶道具・香道具・掛軸・古書・書道具・日本刀・武具・彫刻品・華道具・洋食器
絵画・ブランド品・時計・ガラス工芸品などなど
こちらでお調べさせて頂き、お値段がつくお品物でしたらどんな物でもお買取り致します。
蔵や家の中から出てきた物や、家やお店、事務所に飾られていた物、コレクションで大事にされていた物などご売却をお考えのお品物がございましたら是非いわの美術までお気軽にお問い合わせ下さい。