茶の湯に華やかさを添える京焼の家元のひとつ永樂善五郎家・当代17代による交趾焼の香合です。
交趾焼は色ガラスと同じ成分で作られたやきもので、鮮やかな発色や特徴のあるデザインで古くから多くの茶人に親しまれ、京焼・清水焼を代表する製法のひとつとなっています。
交趾焼の交趾とは、ベトナム北部トンキン・ハノイ地方の古称である“コーチン“が日本風になまって交趾(こうち)の名称で親しまれ、この方面からの商船に舶載されたやきものが日本に渡ってきたことに由来しています。実際には近年の発掘調査により、明時代末期、中国・福建省で焼かれたことがわかっています。
永樂善五郎家は400年以上続く京焼の家元で、千家十職の一職家として代々土風炉(どぶろ)や茶碗などを製作してきたことで知られています。初代宗禅から九代宗巌までは西村姓を名乗って土風炉造りに専念しましたが、十代了全の時代に土風炉以外のやきものを製作するようになりました。
大和国西京(現在の奈良市西ノ京)で春日大社の供御器を作っていたとの記録が残っています。晩年、利休の師であった武蔵野紹鷗から土風炉の製作依頼を受けたことがきっかけとなり、以後土風炉師として善五郎を名乗るようになりました。
奈良より、当時茶の湯の中心地であった堺に移住します。茶の湯が盛んになるのに合わせて土風炉の需要が増えた時代で、中でも宗善は土風炉作りの名手であったとされています。
堺より京都に移住。細川三斎、小堀遠州ら大名茶人の支持を得て土風炉を制作、遠州からは「宗全」の銅印を拝領、以後九代までこの印を用いたことから「宗全風炉」とも呼ばれました。
九代宗巌の子。九歳で父を、十二歳で母を失い、さらには天明八年(1788)の大火事で工房、屋敷、伝来の諸記録、宗全印など全てを焼失してしまいます。表千家八代啐啄斎、九代了々斎の庇護を受けて陶技を樂家九代了入に学び、家の再興に努めました。
了全の養子で文化十四年(1817)に家督を継承。了全とともに紀州徳川家に出仕し、その陶技が認められて金印銀印を拝領しました。永樂家歴代のなかでも名工と言われています。
保全の子。21歳で十二代を襲名し、仁清ゆかりの御室に窯を築き、呉須赤絵、染付、祥瑞、金襴手など、保全以来の陶技を体得し、多彩な作品を制作しました。さらに現在地へと居を移しました。保全と並ぶ名工とされ、明治維新をはさんで茶道衰微の時代において家を守りました。
和全の子。明治四年(1871)十四代を襲名。茶道衰微の時代に国内外の博覧会に積極的に出品しました。得全没後に家業を守ったのが妻の悠で、大正時代の茶道隆盛の時代にはより華やかな道具を数多く制作しています。
十六代即全の子。東京芸術大学日本画科、同大学院工芸科修了。色絵、金襴手、染付など永樂家伝統の作風に加え、仁清風の色絵の掛け分け、青、緑、黄、紫などの多彩な色使いの交趾などの各種道具を製作しています。
茶道具に取り入られる交趾には、香合の他にも皿や花入などがありますが圧倒的に多いのが香合です。その香合の種類には鶏、大亀や、石榴(ざくろ)、蕗のとうなど動物や植物をもとに意匠されたものが多くみられます。親しみやすい器形で手取りも柔らかな交趾香合は、土型によって成形されていて、型物として同形のものが作られますが、色の配色は個々に異なります。総体的に低温で焼かれており、軟質な陶器ならではの色濃い温かみを感じられるのも人気の理由のひとつと言えるのではないでしょうか。
香合は、今回ご紹介した交趾以外にも青磁や染付、祥瑞など炉用のみでも様々な形状が存在し、あらゆる茶道具のなかでも素材・意匠ともに最も多様とされています。数ある茶道具のなかでも、そのような理由からも香合には国内外問わず数多くのコレクターが存在します。特に、時代物や作家による作品には高値がつき、取引されるケースが多くございます。
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