19世紀に活躍したフランスの彫刻家です。
「近代彫刻の父」と称され、従来の古典的な美にとらわれず、自然や時の流れから感じる生命力を表現した新しい彫刻を生み出しました。
弟子も多く、アントワーヌ・ブールデル、小倉右一郎、シャルル・デスピオらがいます。
また、『考える人』という男性が悩んでいるようなポーズをした彫刻が代表作として知られ、認知度の高い作品として知られています。
パリ在住の労働階級の子として生まれたオーギュスト・ロダンのフルネームはフランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダンといいます。
10歳で初めて絵を描いた事で美術に興味を持ち、ミケランジェロの画集と出会ってからデッサンの仕事を志すようになりました。
しかし、極度の近眼で黒板の文字が見えなかった事から14歳になっても読み書きがろくにできなかったと言われています。
それでもプティット・エコール(小さな学校)と呼ばれる工学校に入学し、子供達に絵画やデッサンを教えていたルコック・ボードランがオーギュスト・ロダンの才能を評価し、オーギュスト・ロダンはエコール・デ・ボザールへの入学を志願しました。
プティット・エコールを退学し、エコール・デ・ボザール入学のために塑像作品を提出しますが、当時のエコール・デ・ボザールの趣向と合わないオーギュスト・ロダンの作品は評価されず、何度挑戦しても不合格が続きました。
こうしてエコール・デ・ボザールの入学をあきらめたオーギュスト・ロダンは独学で彫刻を学ぶようになります。
そんな中、経済的にオーギュスト・ロダンを支えていた姉・マリアが他界してしまい、最愛の人を失った悲しみでオーギュスト・ロダンは修道院に入り、美術の道を捨て神の道に生きる事を決意します。
しかし、オーギュスト・ロダンの指導を任されたピエール・ジュリアン司教はオーギュスト・ロダンに彫刻家としての才能を伸ばす事をアドバイし、再び彫刻家としての道を歩むようになりました。
質素な馬小屋に初めてのアトリエを築き、本格的に彫刻家として活動を始めると動物彫刻の大家であったアントワーヌ・ルイ・バリーに弟子入りし、深い影響を受けました。
一方で生涯の伴侶となるローズと出会い、子供を授かったオーギュスト・ロダンはローズとは結婚はしていませんでしたが、家族として暮らしており、その家族を養うために装飾職人として働くようになります。
しかし、普仏戦争が勃発し、徴兵を受けます。
オーギュスト・ロダンは極度の近眼だった事で徴兵を免れましたが戦争によって仕事は激減し、家族を養うためにベルギーへ移住し、ブリュッセル証券取引所の建設作業に参加しました。
当初は仕事が終わったらフランスへ戻って来るつもりでしたが、その滞在期間は6年と長いものになりました。
ベルギーでの生活では節約をして貯めたお金でイタリアへ旅行し、ドナテッロやミケランジェロの彫刻に衝撃と大きな影響を受け、彫刻家としての活動を再開します。
この時、等身大の男性像を制作しましたが、あまりにもリアルすぎて実際の人間から型をとったのではないかと疑われ、これに憤慨したオーギュスト・ロダンは実際の人間よりも大きいサイズの彫刻を制作し、人間から型を取ったのではないと証明する事に成功し、フランス中にその名が知られていきました。
こうして、国立美術館建設のためのモニュメントの制作依頼を受け、後のオーギュスト・ロダンの代表作となる『地獄の門』の制作を始めますが、美術館建設は白紙に戻り、オーギュスト・ロダンへ制作中止の命令が出ます。
しかしオーギュスト・ロダンはこれを拒否し、お金を払って『地獄の門』の権利を手に入れ、制作を続けました。
その後、『地獄の門』を覗き込む男の像を発表し、ダンテの神曲から構想を得た作品であった事からこの男性はダンテと言われていましたが、オーギュスト・ロダン自身であるとも言われるようになり、後にこの男性像はリュディエによって鋳造される際、『考える人』と名付けられました。
オーギュスト・ロダンは生涯の伴侶であるローズがいるにも関わらず、数々の女性と愛人関係にありました。
その中でも『地獄の門』の制作時に出会った教え子・カミーユ・クローデルとはローズと同じくらいの愛情を持って接しており、子供も授かりました。
しかしその子供はこの世に生まれる事はなく、最終的にはローズを選んでしまったため、カミーユはオーギュスト・ロダンから見放され、世間からは彫刻家としても評価されなかった事で精神を病んでしまったそうです。
一方、ローズとは死ぬ直前に入籍しており、正式な夫婦となってこの世を去りました。