石井鶴三は東京都出身の彫刻家、版画家、画家として活躍し、若き頃は一時期漫画記者でもありました。
石井鶴三は画家の石井鼎湖(号・鼎湖)の三男として生まれました。
兄は洋画家で版画家でもある石井柏亭という芸術一家として知られています。
父は若くして亡くなった、兄は16歳で後を継ぐように一家の大黒柱となるべく印刷局に努めるますが弟である石井鶴三は、千葉県船橋の矢橋家(叔母の夫)へ養子となります。
その頃の石井鶴三はつまらない日々を過ごしていましたが、馬の世話を頼まれ、その馬と仲良くなり、馬に触れているうちに竹、針金で骨組みを作り、粘土、漆喰つけて馬の形を作ったことが彫刻家へのきっかけとなりました。
後に東京美術学校で彫刻を学びながら午後は家計を助けるために漫画記者という生活を8年間続け、関東大震災を境に造形への道が開け精力的に活動がスタートしました。
石井鶴三の彫刻の立体造形は、幼い頃の幸せとはいえない環境で仲良くなった馬の体を基本とし、確かな骨格を感じる個性的な魅力と造形は高い評価を得ています。
また、石井鶴三は「彫刻とは何か?」という質問にすぐさま「凹凸の妖怪(おばけ)」と答えたそうです。
挿絵を含む絵画などにも取り組んでおり、新聞小説の挿絵を手掛けており、当時の挿絵は浮世絵風でしたが石井鶴三の新聞連載小説は洋画風挿絵の先駆けといわれています。
後に挿絵画家としても地位を築きますが石井鶴三の作風はデッサン力の高さを強く感じるもので、モチーフの心理と形態感を鋭くとらえた線に特徴があります。
それは線の芸術である彫刻の技術がいかされています。
また、石井鶴三の版画は版画家の恩地孝四郎に「その斜刀で為される刀使いは、斜度が高く、随ってその摺画は充分な厚み、奥行をよく平面に盛って居る現代の日本版画である」といわれており、石井鶴三の挿絵に当てはめる事が出来ます。
石井鶴三は東京芸術大学の教授に就任した後は、多くの注目作品を制作します。
70歳の頃に独自の世界観を生み出しましたが惜しまれながらも85歳でこの世を去りました。