北海道出身の昭和時代に活躍した日本の彫刻家です。
学生時代に右手が不自由になり、左手で制作する事から「昭和の左甚五郎」と呼ばれるほどの腕前を持ち、文展、日展などで38回の入選を果たし、4回の受賞、無鑑査・出品、招待推薦などを受けるという活躍を見せました。
阿部晃工は上京して彫刻家・柴田正重に数年間師事し、木彫を修得します。
その後、東京美術学校へ入学し、在学中に学生相撲で右手にけがを負った事が原因で右手の自由が奪われ、主に左手で制作を行っていました。
そんな中、卒業前に出品した帝展で初入選を果たします。
東京美術学校の研究科も終了し、彫刻家として活動を行っていましたがその生活は辛く厳しいもので、食べる物にさえ困る日々が続きました。
こうして制作に行き詰まり、将来性も見えなくなってしまった阿部晃工は実家に援助を求める手紙を送ります。
しかし、母親からの返事は「まだ父親にはこの手紙はまだ見せない。助けてあげたいが家も余裕がない。それに一人前の男が食えないというのなら、何も食べずに死になさい。死んで骨になって帰ってきない」というような内容でした。
一見すると見放されたように感じる文章ですが、そこには甘やかさず、あえて厳しい言葉をかけつつも、ちょっとした事で負けずに一人前の彫刻家になってほしいという母親の深い愛情に溢れているものでした。
阿部晃工はこの手紙を涙ながらに読み、折れた心を発奮させ彫刻家としてあらためて再出発します。
残念ながら母親は阿部晃工が素晴らしい彫刻家になる前にこの世を去ってしまいましたが、阿部晃工は誰もが認める彫刻家として評価されるようになります。
戦後は官展系の団体展から離れ、戦後唯一の彫刻公募団体・創型会の創立に参加し、美術家代表団の一員として短期間の渡欧、更にはインド政府の招待で仏像研究のため、インド、カンボジアを歴訪しました。
こうして晩年の作風は、具象彫刻の領域にありながらも、練熟した彫技を駆使した木彫を手掛ける事が多くなり、大きな面を強調要約した簡潔な形態把握の力作を残しました。