ミケランジェロ・ブオナローティはルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人です。
西洋美術史上あらゆる分野に大きな影響を与えた事で知られています。
またレオナルド・ダ・ヴィンチと同じく万能人と呼ばれていた事でも知られています。
ミケランジェロ・ブオナローティはイタリアの旧フィレンツェ共和国のカプレーゼで生まれています。
ミケランジェロの一族は数世代にわたり、小さな銀行を経営していましたが、ミケランジェロの父の代に経営に失敗し、共和国政府の臨時職員として一家を養っていたそうです。
また事実かどうかは立証されていませんが、母はトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサの末裔といわれています。
ミケランジェロが6歳の頃に母が亡くなっており、この時期のミケランジェロ一家はセティニャーノで大理石採掘場と小さな農園を経営しており、石工一家と共に生活を送っていました。
ミケランジェロはこの頃に乳母の乳を飲みながら蚤と金槌の使い方と人物彫刻のコツをつかむことが出来たと述べていたそうです。
その後ミケランジェロは学問には興味を示さず、装飾絵画の模写や画家達と交流が好きだったそうで、当時では異例の14歳で一人前の画家として認められています。
ミケランジェロはおよそ二年間メディチ家が創設したプラトン・アカデミーに参加しています。
またこの頃、彫刻も学んでおり、同じく彫刻を学んでいた者に顔を殴られ鼻骨が曲がってしまったというエピソードが残されており、その時のミケランジェロの肖像画には鼻骨が曲がっている特徴がしっかりと捉えられています。
その後、ミケランジェロはメディチ家を離れて父親のもとに戻っています。
しかし大雪が降った年にメディチ家から雪像制作の依頼があった為に再度、メディチ家宮廷に迎えられています。
しかし、フィレンツェの実質的な支配者だったメディチ家は侵攻してきたフランス軍によって追放されます。
ミケランジェロもフィレンツェを去っておりヴェネチアを経由しボローニャへと住まいを移し、ボローニャではサン・ドメニコ聖堂の人物彫刻を完成させ、その後ミケランジェロはローマへ招かれています。
ローマを訪れたミケランジェロはバッカス像やピエタなどを制作しています。
その後ミケランジェロは情勢の落ち着いてきたフィレンツェに戻り、ダビデ像や聖母マリアなどを完成させ、高い評価をより確実な評価にする事が出来ました。
ミケランジェロはユリウス2世に呼ばれ再びローマに訪れユリウス2世の霊廟や天井画の制作を依頼されます。
しかし跡継ぎの歴代教皇からの多すぎる芸術作品の制作依頼に追われていたミケランジェロは自身が満足の出来る作品はなかったそうです。
その後、再び複雑な情勢となっていたフィレンツェに戻りますがメディチ家の制作に納得のいかなかったミケランジェロはローマに落ち着く事となります。
その後ミケランジェロは、制作途中だったユリウス2世の霊廟や最後の審判などを完成させていますが88歳の時に惜しまれつつもこの世を去りました。
ミケランジェロの遺体は遺言通りにフィレンツェに運ばれてサンタ・クローチェ聖堂に埋葬されています。