静岡県出身の昭和~平成時代に活躍する日本の彫刻家です。
独学で彫刻技術を学び、人間の内面を映し出した温かな作風と、様々な喜怒哀楽を表現する作品で独自の芸術世界を確立した事で知られています。
病気で命の大切さを知った前島秀章は、長い年月のうちに中心部が腐って空洞になった巨木が強風などによって倒された樹齢300~400年の風倒木を用いて作品を制作しており、寿命をまっとうした木に彫刻として新たな生命を与え続けています。
前島秀章の生家は茶商を営んでいましたが、幼い頃に経営が傾き、家は貧しい暮らしを送っていました。
それでも絵を描く事が大好きだった前島秀章は、デッサン、水彩画、木彫習作などを盛んに行っていました。
ちなみに前島秀章が幼少期に描いていたデッサン、水彩画、木彫習作などは、静岡県御殿場市の御殿場高原にある「時の栖 前島秀章美術館」に展示されています。
そんなある日、藤田嗣治のデッサン『横たわるユキ』に心奪われ、しばらくはデッサンにのめり込み、水彩の習作に明け暮れる日々が続きました。
そしてついに彫刻と出会う事となり、運慶、快慶ら鎌倉初期の慶派彫刻に対する深い感銘が生まれ、独学で彫塑の制作を開始しました。
しかし、家族や周囲の人たちは彫刻家では食べていけないと反対する者たちばかりでしたが、前島秀章はその反対を押し切って、一切の援助を受けずに彫刻家を志す事を決意します。
こうして自分の手で稼ぎながら彫刻家を目指す事になるのですが、木彫のため定職に就く事もできず、今で言うフリーターという立場で生計を立てながら彫刻の修練に励みました。
この時、様々な職業を体験した事で、人の心の喜怒哀楽を知る事となり、やがて作品に反映させていく事になります。
しかし、前島秀章の体を病魔が襲います。
十二指腸潰瘍で開腹手術し、胃を摘出した前島秀章は、体力的にも精神的にもかなりの負担がかかり、一時は彫刻家になる事を断念しようと思うようになります。
しかし、この病気が生きる大切さを知るきっかけとなり、生きる喜びを表現する素材として木への執着をさらに深めていきました。
前島秀章は必死になってたくさんの彫刻の制作を行いますが、なかなか評価される事がなく、彫刻家としての道を諦めかけた時、初個展の話が舞い込んできました。
この個展が成功し、別の個展ではイギリス、フランス、ドイツ、オランダ、ベルギーなどの駐日大使・公使や商社の駐在員が来展し、多くの作品が海外へ渡る事となりました。
更に創型会彫塑展では連続受賞を果たし、創型会会員に推挙されますが、後に退会し、現在は無所属として活動を続けていく事になります。
前島秀章の東洋的な作風は海外では高い評価を受け、ニューヨークなどで個展を開催するまでとなり、無形文化財選定保存技術者で能面作家の長澤氏春の指導を受けるようになると表現力が増し、前島秀章の作品は更に魅力的になります。
しかし、師の言葉に背いて創作面を彫る事に専念してしまったため、師から出入りを固く禁じられてしまうというエピソードが残されています。
こうして、これまでに非常に多くの作品を制作してきた前島秀章は、日本各地で制作依頼を受け、仏像やモニュメントの制作など幅広い活動を見せ、現在も精力的に活動を続けています。