鹿児島県出身の明治~昭和時代に活躍した日本の彫刻家です。
生涯で2631体の仏像・工芸品などの文化財の修復を行い、その修復前後の写真や書面などの詳細な記録を残していた事から、文化財修理の基礎を築いた人物と言えます。
その文化財修復に対する精神は師匠でもある岡倉天心の「職人になるな、研究者であれ」という言葉が大きく影響しています。
東京美術学校に入学した新納忠之介は同期に高村光雲、板谷波山といった後の日本の美術界に大きく貢献した人物たちがおり、優れた人材が育った時期でもありました。
その後、東京美術学校の助教授をつとめるようになりましたが、当時東京美術学校の校長をつとめていた岡倉天心の排斥運動が高まり、岡倉天心に同調して東京美術学校を辞めています。
そんな中、国宝の修理などを事業として行う日本美術院の第二部(彫刻)が奈良に設置されると、第二部主任として院展の審査員をつとめるようになります。
更に日本美術院二部は分かれると、個別に美術院という名で運営するようになり、新納忠之介も多数の技術者を集めて文化財修復に専念するようになります。
しかし、関東大震災が起こり、関東地方の仏像が大きなダメージを負ってしまい、特に国宝の多い鎌倉の仏像はすべて修復しなければならないという事態となり、新納忠之介も全力で修復作業にあたります。
その間に京都・三十三間堂の千躰千手観音像修理事業も行っており、この事業は戦時中でも続けられました。
そのため、戦争に参加せず文化財の修復作業に没頭する事に対して周りからは良く思われておらず、たびたび叱咤叱責を受けていました。
それでも文化財修復を続けた新納忠之介の功績は、後の日本の文化財保護において大きな役割を果たしており、国宝保存会委員、帝室博物館学芸委員などを歴任しており、自分の信じる道を進んだ結果として成果をあげる事となりました。
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1869年 鹿児島県で生まれる
1889年 東京美術学校彫刻科に入学する
1895年 東京美術学校助教授となる
1897年 中尊寺の修理主任をつとめる
1898年 東京美術学校を辞職する
00000年日本美術院第二部主任、院展審査員をつとめる
1900年 内務省古社寺保序計画の調査を嘱託される
1908年 アメリカのボストン美術館東洋部顧間として駐在する
1909年 イギリス博覧会美術館工事監督を嘱託されてイタリアへ渡る
1919年 宮内省帝室博物館学芸委員となり、正倉院の調査研究を行う
1932年 市立奈良美術工芸研究所長となる
1952年 奈良国立博物館評議員会評議員に任命される
1954年 逝去
1869年 鹿児島県で生まれる
1889年 東京美術学校彫刻科に入学する
1895年 東京美術学校助教授となる
1897年 中尊寺の修理主任をつとめる
1898年 東京美術学校を辞職する
00000年日本美術院第二部主任、院展審査員をつとめる
1900年 内務省古社寺保序計画の調査を嘱託される
1908年 アメリカのボストン美術館東洋部顧間として駐在する
1909年 イギリス博覧会美術館工事監督を嘱託されてイタリアへ渡る
1919年 宮内省帝室博物館学芸委員となり、正倉院の調査研究を行う
1932年 市立奈良美術工芸研究所長となる
1952年 奈良国立博物館評議員会評議員に任命される
1954年 逝去