兵庫県出身の昭和~平成時代に活躍した日本のデザイナー、彫刻家です。
ウルトラマンやそこに登場する怪獣のデザインを手掛けた事で知られ、円谷プロダクションと著作権の問題でもめた事もありました。
大阪万国博覧会で岡本太郎が制作した太陽の塔内部の生命の樹のデザインを担当しており、彫刻家としての活躍を多く見られます。
神戸で生まれましたが青森で育ち、1歳になる前に囲炉裏の火をつかもうとして左手にやけどを負ってしまいました。
数回の手術を行いましたが、完全に治る事はなく、この事が原因で小学校ではいじめに遭います。
そんな中、右手だけでも絵を描く事にのめりこんでいき、印刷工として働きながら資金を貯め、本格的に絵画を学ぼうと武蔵野美術学校に入学しました。
洋画を専攻していた成田亨でしたが、その授業がつまらないものに感じ、彫刻科に転科し、左手の移植した皮膚からは血が流れる事もあり、痛みに負けずに必至に彫刻技術を磨いていきました。
美術学校を卒業すると友人に誘われ、映画作品「ゴジラ」のゴジラに壊される建物のミニチュア制作のアルバイトをする事となり、それが後に美術スタッフとして各映画会社の特撮作品に参加するようになります。
一方で武蔵野美術学校彫刻研究科へ進み、研究課程を修了すると映画監督のもとへ弟子入りをして特撮に必要な技術を学びました。
その後、円谷プロダクションの契約社員として働くようになり、特撮テレビ映画「ウルトラQ」の第2クールから美術監督をつとめるまでになります。
こうして、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「マイティジャック」などでも怪獣やレギュラーメカのデザインを担当し、特撮界の重鎮として広く知られていきました。
円谷プロダクションを退社すると、幼年期を過ごした青森で初個展を開催したのを皮切りに日本各地で個展を開催するようになり、そこで個展に出品していた作品の販売も行っていました。
その際、注文を受けると展示した作品個体そのものではなく、後日そっくり同じものを新たに制作し、それを客に届けるというシステムであったため、まったく同じ構図・色彩の作品が複数存在しており、度々贋作が疑われる事もありました。
一方で、円谷プロダクションで働いていた頃にデザインを手掛けたキャラクターの著作権をめぐり、円谷プロダクションと争っていましたが、裁判は判決が出ないまま原告側である成田亨の訴訟取り下げによって終了しました。
こういった事情から、円谷プロダクション時代に自らデザインしたウルトラマンや怪獣のデザインを用いてオリジナルの作品を作っていますが、著作権のある固有名詞は使わずに発表しています。