富山県出身の昭和時代に活躍した日本の彫刻家です。
仏像を主に制作していますが、子供をモチーフにしたもの、日常の一場面を彫り出した作品なども残しています。
佐々木大樹は本名を長次郎といい、父親は農業のかたわら酒の販売や温泉を経営しており裕福な幼少時代を過ごしました。
幼い頃から絵を描いたり、彫り物をする事が好きだった佐々木大樹は、黒部川に流れ着く流木を拾う事が楽しみで、色々な形をした流木を集めていました。
高等科2年生の時、秋の写生大会で描いた作品が見事な出来栄えで学校中の評判となりましたが、卒業が近づいてくる頃には大工見習いになろうと決意します。
しかし、芸術への道を諦める事ができず、密かに抱いていた思いを父親に打ち明けました。
頑固者の父親の事だから反対されるだろうと思っていた佐々木大樹ですが、意外にも父親は佐々木大樹が芸術の道を進む事に反対はしませんでした。
こうして富山県立工芸学校木工科彫刻部本科に入学して本格的に木彫刻を学び、成績優秀で卒業します。
東京美術学校彫刻科に進学した佐々木大樹は、奈良の古い木彫の研究家・竹内久一や、衰退していく日本の木彫を守り世界的にも有名な高村光雲に師事します。
二人の師から技術的な事はもちろん、彫刻家としての精神的な部分を学びましたが、卒業する頃には自分の木彫刻に物足りなさを感じていました。
そんな時、鎌倉時代の仏像と出会った事でその仏像から力強さと美しさを感じ取る事ができた佐々木大樹は、伝統的な仏像彫刻の精神に現代性をあわせ持った独自の表現を生み出しました。
その後は帝展で活躍を見せ、帝国美術院賞を受賞するなど彫刻家として見事な活躍を見せるようになると「大樹」という号を用いるようになります。
佐々木大樹は帝国美術学校教授、多摩帝国美術学校教授をつとめ、後進の指導・育成にあたっていますが「名声や地位は作家には不要」と、芸術院会員、日展理事などに推挙されていますが全て断っています。
最後まで作家として自らの望むものを彫り続けた佐々木大樹ですが、『平和の像』という作品を手掛けている最中にこの世を去ってしまい、息子の日出雄に引き継がれ『平和の像』は完成しました。
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