北海道出身の昭和~平成時代に活躍した日本の彫刻家です。
木彫専門の彫刻家として知られ、大胆にして繊細、そして原始的にしてモダンな独自の作風を確立し、「ビッキ文様」と呼ばれ現在も高い人気を得ています。
砂澤ビッキはアイヌ人の血を引いており、その事から「アイヌの芸術家」と呼ばれる事もありましたが、砂澤ビッキ自身はそういう枠にはめられる事を嫌い、自由気ままに制作を行っていました。
両親ともにアイヌ人という家に生まれた砂澤ビッキは、戸籍上は「恒雄(ひさお)」といいます。
「ビッキ」は幼い頃らの愛称で、アイヌの言葉で「蛙」というような意味を持つそうです。
北海道立農業講習所を終了してから父親が開拓した地で農業を始めた砂澤ビッキですが、やがて阿寒湖で土産物の木彫りを行うようになり、鎌倉へ移住した事から、阿寒湖と鎌倉を往復する生活が始まりました。
鎌倉では独学で絵画を学び、モダンアート協会や読売アンデパンダン展に出品するなど、絵画を中心に制作活動を行っていました。
その時に澁澤龍彦らと交友を深めており、作品は抽象的でシュルレアリスム的な作品が多く制作されていました。
彫刻家に転向すると北海道へ戻り、旭川にアトリエを構え活動を続けますが、後に音威子府(おいねっぷ)村の小学校跡にアトリエを構え、「アトリエ3モア」と名付けます。
砂澤ビッキはこの音威子府で亡くなるまでの10年間を過ごしており、残されたアトリエは記念館として保存され、当時のアトリエの様子をそのままに砂澤ビッキの作品も展示されています。
また、入口には10年間で制作された1000を越える作品のタイトルが刻まれており、どれも面白いタイトルが多いのも砂澤ビッキ作品の特徴です。
そんな砂澤ビッキの作品は、見る人に「触ってもらいたい」「動かしてもらいたい」「参加してもらいたい」という気持ちが込められており、個展を行った際は実際に触る事の出来る作品が多かったそうで、生命力あふれる作品は多くの人々を感動させてきました。
砂澤ビッキの作品はアクセサリーのような小さなものから、モニュメントのような大きなものまで手掛けていました。
その中でも旭川にある居酒屋「いころ亭」は、砂澤ビッキが店全体をレイアウトし、初期の頃の作品が置かれるなど、店全体が砂澤ビッキの作品となっている事で知られています。