福島県出身の昭和時代に活躍した日本の彫刻家です。
佐藤朝山は本名を佐藤清蔵といい、76年間という生涯の中で、いくつかの作家名を名乗っており、佐藤朝山という名は師匠である山崎朝雲から貰った名前です。
しかし、山崎朝雲と不仲になった事から「朝山」の名前を返上し、戦後は「阿吽洞玄々」「佐藤玄々」などと名乗っています。
そんな佐藤朝山の作風は伝統的な技法と、西洋の流線彫刻技法を交えたもので、人物の表情に生命力を感じる事ができ、独自の世界を確立しました。
宮彫師の家に生まれた佐藤朝山は、幼い頃から彫刻家として技術を学ぶなど、彫刻家として最適な環境下で育ちました。
やがて職人ではなく、芸術家を志すようになると、山崎朝雲に師事します。
山崎朝雲は仏師として高名な高村光雲に師事して技術を学んだ人物で、同門の平櫛田中、米原雲海らとともに日本彫刻会を結成し、 帝国美術院会員、帝国芸術院会員として活躍し、木彫による写実的な表現に新境地を見出そうとしていました。
そのため、日本の彫刻界に大きな影響力を持つ人物で、その事が後に佐藤朝山との確執の溝を深める事になります。
その後、独立して東京・大森にアトリエを構えると日本美術院同人として院展を中心に出品を続け、フランスへ官費留学しています。
フランスではアントワーヌ・ブールデルに師事し、西洋の彫刻を学びました。
帰国後は帝国美術院会員、帝国芸術院会員として活躍し、紀元二千六百年記念行事の一環で、「和気清麻呂像」の制作計画が持ち上がり、佐藤朝山の他にも北村西望、朝倉文夫が立候補していました。
これを受け、佐藤朝山の師である山崎朝雲は「銅像のような大作は佐藤より朝倉さんや北村さんの方が良い」と言った事で、佐藤朝雲は憤慨し、「朝山」の号を返上し、師弟の関係に終止符を打ちました。
その後、「佐藤玄々」と号するまで本名の「佐藤清蔵」の名前で制作活動を続けていましたが戦争によって東京・大森のアトリエが全焼してしまいます。
それでも彫刻家としての道を進み続けた佐藤朝山は『老子』の一節「玄之又玄、衆妙之門」から「佐藤玄々」を名乗るようになり、動物を主題とした完成度の高い彩色彫刻を生み出しました。
また、三越創立50周年記念事業のひとつとして社長・岩瀬英一郎に依頼され制作した『天女(まごこころ)』は約10年の歳月を掛けて制作された大作で、近代以降に作られた木彫作品のなかでは最大級の大きさを誇っています。
こうして日本の彫刻界に大きな爪痕を残した佐藤朝山ですが、現在ではその知名度はあまり高くありませんが、晩年は京都・妙心寺の一角に工房を構え、精緻な彩色が施された木彫作品を生み出し続けていました。