岸田劉生 書画 掛軸
こちらのお品物は、銀座育ちの偏屈画家、しかしその優しくカラフルな画風で100年近く経った今でも魅力溢れる岸田劉生による作品です。
38歳で亡くなるまでの3年間は文字と絵の掛軸を多く制作しており、こちらの掛軸もその頃の作品と推定されます。
中国の文人画で好まれる歳寒三友を画材として宋代の文人の一節『如今三友交情密不到歳寒人不知』を用いているようです。
三友=松竹梅なのですが、こちらの作品には中国の子供達が親しげに集い、穏やかで心温まる作品となっています。
岸田劉生
岸田劉生は東京の銀座生まれの下町っ子として育ちました。
父親は新聞社の主幹であり、かつその新聞に自身が販売する目薬の宣伝を掲載するという当時画期的であった広告戦略が成功し大儲けしています。
岸田劉生の弟も宝塚歌劇団の劇作家になるなど、才能溢れる一族のようです。
岸田劉生自身は非常に喧嘩っ早く癇癪持ちな反面、シャレや冗談に長けています。
そして血まみれの小指や生首をリアルに制作して放置し、人を驚かせるなどのイタズラ好きでした。
中学を中退後、黒田清輝に師事し19歳(1910年)で文展に2点の作品が入選します。
21歳(1912年)で本格的に画壇デビューを果たし、結婚もしました。
この頃はポスト印象派、その中でもセザンヌに熱狂した後、ルネサンスやバロック、特にデューラーの写実的表現に傾倒していきます。
また1913~1915年は『岸田の首狩り』『千人切り』と呼ばれるほど大量に肖像画制作をしており、知人になるとモデルになって欲しいと頼む癖があったようです。
25歳で結核と誤診され、翌1917年 神奈川県鵠沼に移り住みます。
この頃、独自の写実である『内なる美』の探求に没頭し、教科書にも登場した娘の麗子像の連作が生まれるなど、絶頂期を迎えました。
イタズラ好きは健在で、リアルな大便の模型を使って客にドッキリを仕掛け、娘の麗子と喜んでいたという逸話もあります。
若くして成功した画家である一方で、激しい飲酒や女遊びが災いして作品を売ったお金は借金の返済に消えていったそうです。
不摂生な生活は岸田劉生の健康も蝕んでいました。
関東大震災(1923年32歳)で被災し京都に移住した頃から東洋古美術に魅せられますが、画力が落ちた関係で細密描写から東洋的表現に転向したという見解もあります。
油彩画が減り、水彩画や水墨画がメインとなり、制作時間が短く軽いタッチの作品が増えました。
経済的に苦しいにも関わらず、1929年38歳の時に岸田劉生は人生初の海外旅行に行きます。
まずは満州に渡航して作品を制作販売し、ヨーロッパに行く費用を稼ごうと試みました。
ヨーロッパに留学して箔を付ける芸術家は今でも絶えませんが、岸田劉生は『パリに行った暁には、フランスの画家に絵を教えてやる』と豪語していたそうです。
他人には理解できなくても、これほどの強烈な自我があったからこそ生まれた芸術ではないでしょうか。
しかし作品は思ったような価格では売れず、体調悪化もあり僅か2ヶ月で帰国。
家には向かわず港からほど近い山口県の知人宅に一時滞在し飲酒を繰り返し、3週間後に夭折しました。
岸田劉生が交流した芸術家
癖の強い性格ではあったものの、その稀有な才能は多くの芸術家に影響を与えています。
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