幕末から明治時代の武士で明治時代の九谷焼の功労者です。
元加賀藩士で金沢の自邸に錦窯を築き、内海吉造(松齢堂陶山)を工長とし任田徳次(旭山)・小寺藤兵衛(椿山)その他民山窯以来の陶画工および徒弟80余名の陶工をあつめて輸出用の九谷焼を制作させます。
海外輸出の販路を求め、円中孫平と協力して神戸・長崎に支店を開業します。
しかし、他商の滑策に付け込まれたり、製器が破損したり、そのうえ商業の不熟練によって利益が得られず、負債ばかりが大きくなっていまい工場を封鎖しました。
事業に失敗しましたが陶磁への念を断つ事が出来ず、店舗を設けて陶磁器を並べ、九谷焼の販路の拡張に専念し、農商務卿から功労表彰を受けました。
晩年は九谷焼と別れ、晩年は不遇で石川県商品陳列所の一雇員として働きました。