兵庫県出身の陶芸家です。
初代・宮川香山を師に持ち、「香山秘蔵の弟子」の一人に数えられ、宮川香山に弟子入りしていた頃は「井高香渓」と名乗っていました。
実は、もともと兵庫県出石陶磁器試験所で技師をしていた井高帰山は、真っ白な白高麗を焼く事ができる腕を持っており、その腕に惚れ込んだ宮川香山が門人に迎え、弟子となったそうです。
その溺愛ぶりはかなりのもので、井高家に残る一枚の領収書には宮川香山が買い与えたハイカラーのシャツとクロックコートの代金が金二十九円五十銭と書かれており、この事からも宮川香山が井高帰山を溺愛していた事が分かります。
宮川香山の命で軽井沢の三笠窯に従事し、その後は友田安清が創設した金沢市の日本硬質陶器株式会社で働きました。
井高帰山がいなくなった三笠窯では宮川香山の死後、衰退してしまいましたが、三笠ホテルの創業者・山本直良から三笠焼を再興させたいという声を受け、再び軽井沢へ向かい、「浅間焼」を誕生させました。
これは火山噴出物の軽石を原料に混ぜ焼成する焼物で、三笠焼同じ原料を使用しています。
ちなみに日本硬質陶器株式会社で働いた後、東京に戻った井高帰山は目黒に「帰山窯」を築き作陶に励んでおり、三笠焼再興のために窯は息子へ譲ったそうで、現在は神奈川県川崎市に場所を移して井高帰山の孫である通(とおる)が「帰山窯」を継承しています。
井高帰山は全ての作品において助手などを使わず、一人で作陶をしていたため、残された作品が少なく、中古市場でも高値で取引されている作品が多い作家として亡くなった現在でも注目されています。
その作品は主に煎茶器が多く、青磁、白磁なども手掛けています。