日本の京焼の陶芸家で、千家十職の一つ、土風炉師・焼物師である永楽善五郎の15代目として知られています。
14代善五郎(得全)の妻・妙全の甥で元姓を山本、名を治三郎といい、正全は号になります。
永楽家は初代から9代までは西村姓を名乗っており、10代以降から永楽姓を名乗るようになりました。
代々、土風炉、茶碗などを制作し、一時は家の存続が危ぶまれましたが、三千家の援助もあり、再興し、現在は17代まで続いています。
妙全生存中はその代作にあたっており、妙全が亡くなると、正全は1932年までの約5年間、15代・永楽善五郎として活躍し、永楽善五郎の名で作品を残しています。
大正初年には信楽へ足を運び、伊賀や信楽の焼物に触れています。
そのため、信楽、伊賀の写しを得意としており、彫名に「神楽山」とあるのが特徴です。
また、12代・善五郎(和全)の布目手の技法を再現するため、使用する布を別機にて織らせ、更に精巧なものを作り上げたとして知られており、建仁寺4世・竹田黙雷老師より「正全」の号を受け、三井高棟より「正全」印を拝領しています。
このように永楽善五郎として活躍していた時期が短いため、現存する作品が少ない作家の一人として、中古市場でも高値で取引されている作品も多数あります。
息子・茂一は正全が亡くなった後に16代・永楽善五郎を継ぎ、家督を譲った後は「即全」と号し、千家十職による千松会などを開催し、茶陶界において精力的に活動を行っている事で知られています。