飛来一閑は千家十職の一つ、一閑張細工師の当主が代々襲名している名称です。
千家十職とは茶道に関わり三千家に出入りする茶碗師、釜師、塗師、指物師、金物師、袋師、表具師、一閑張細工師、竹細工・柄杓師、土風炉・焼物師の十の職家を表す尊称で、代々の家元によってその数が変動していましたが、明治時代に現在の十職に整理されました。
飛来家の初代は明の人で、清の侵攻が中国南部まで及び、身の危険を感じて大徳寺の清巌宗渭和尚を頼り、寛永頃に亡命者として日本にやってきました。
素性を隠して「飛来」姓を名乗り、趣味で木地や張子などの器を作って茶を楽しんでいました。
ある日、清巌の紹介により千宗旦に入門し、趣味の紙漆細工が宗旦の目にとまり、棗や香合などの小物の注文を受けるようになりました。
のちにこの紙漆細工は木地に和紙を張ったもの或いは、木型に和紙を張り重ね型から抜き取ったものに漆を塗る技法で「一閑張」と呼ばれるようになり、高い評価を受けるようになります。
この技法は初代の長女・ゆきにも受け継がれており、ゆきは御所仕えをしていた岸田喜右衛門に嫁いでおり、岸田家も漆細工を家業とし、岸家の一閑張は「岸一閑」と呼ばれています。
その後、飛来家は4代の時に表千家6代・覚々斎の御用細工師となり、正式に千家の道具を手掛けるようになりますが、6代~8代までは早世する当主が続き、家業の存続が危ぶまれました。
9代、10代によって家業の再興にあたり、その意志を受け継いだ11代の技術は「名人」とまで言われ中興の祖として知られています。
しかし、14代の時に後継者として育てた2人の息子が太平洋戦争の徴兵により、帰らぬ人となり、またも家業の存続の危機に直面します。
婿養子を取る形で15代、16代と続き、16代は12代・中村宗哲と並ぶ千家十職としては珍しい女性当主として、現在も夫と二人三脚で家業に従事しています。