幕末に瀬戸で活躍した日本の陶芸家です。
瀬戸赤津の陶工で加藤政高を陶祖として代々陶家をつとめる加藤家の16代目として生まれました。
15歳で父・景典の跡を継ぎ、尾張藩御庭焼御深井窯に従事するようになります。
御深井窯では御深井焼という17世紀後半から18世紀にかけて盛行した灰釉に長石を加えて透明度を高めた釉を施す焼物の事で、摺絵や素地を型にはめて成形する技法の型打ちや貼付文などを用いている事も特徴です。
しかし、罪によって御窯屋職を退き、赤津、今尾、名古屋にて「今尾春岱印」「春楽印」で作陶を始め、技を磨きます。
こうして48歳の頃に徳川慶勝より号・春岱を拝領し、御窯屋職復帰して明治初年の御庭焼廃止まで職をつとめました。
作風は瀬戸系の物ばかりではなく唐津、赤絵、萩、丹波、安南、刷毛目が中心で、陶器だけでなく磁器においても染付、青磁などと諸窯の写し物を多岐にわたって制作しており、ろくろ形成と釉薬発色の技法に優れ、秀作を残しています。
しかし、意外と現存する作品の数が少なく、贋作が非常に多く出回っている作家の一人でもあります。
また、赤津焼の釉薬技法が春岱によって復興し、瀬戸焼中興の祖といわれ近世の名工と称されています。