昭和時代に活躍した華厳宗の僧侶で、第206世東大寺別当をつとめ、東大寺学園中学校・高等学校校長、東大寺執事長、華厳宗宗務長などを歴任しています。
奈良市東大寺塔頭持宝院に生まれ、志願兵として野砲22連隊に入隊し、太平洋戦争末期に召集され朝鮮に派遣された経歴を持ちます。
この朝鮮に派遣された時に陶芸に魅せられ、古美術に興味を持つようになり、のちに壷の収集家として知られ「壷法師」と呼ばれていました。
また、文学・芸術をとても愛しており、奈良で文化人サロンを形成した事も有名です。
このサロンははじめ、奈良に移住した志賀直哉を中心としたサロンで「高畑サロン」と呼ばれていました。
ここには上司海雲も出入りしており、志賀直哉と親交を深めたそうです。
その後、志賀直哉が東京へ上京すると、残されたサロンを上司海雲が引き継ぐ事になりました。
こうして、画家の杉本健吉、歌人で早稲田大学の教授であった会津八一、写真家・入江泰吉、洋画家・須田剋太などが出入りしていました。
また、上司海雲自身も書に長けており、多くの掛軸を残しています。
そんな上司海雲ですが、東大寺大仏殿の昭和の大修理のために尽力していましたが、任期途中で癌によってこの世を去ってしまい、この事業は後任の別当・清水公照に引き継がれました。