京都府出身の明治~昭和時代に活躍した日本の芸術家で、陶芸家、書道家、漆芸家、美食家、料理家、篆刻家など複数の顔を持つ事で知られています。
しかし、本人は「作家」という言葉を嫌っており、織部焼の重要無形文化財保持者として推挙されましたが、これを辞退しています。
とくに陶芸作品は美食家であった事から、食事に合う器作りを心掛けており、「用の美」を追求したものが多く存在します。
その数は実に20万点を超えており、書、篆刻、絵画に関しては1万点以上を制作し、作家として活動をしていなかった事からサインや署名、落款などが記されていない作品も多数存在します。
京都府愛宕郡上賀茂神社の社家・北大路清操の子として生まれた北大路魯山人ですが、本名を北大路房次郎といい、母親が不貞で生んだ子供であったため、忌み嫌われ、親戚の間をたらい回しにされ、木版師・福田武造に拾われて養子として育ちました。
そういった環境下で育った事もあり、北大路魯山人の性格は少し歪んでしまい、「傲岸」「不遜」「狷介」「虚栄」「毒舌」などの悪評が目立つようになりました。
ある日、画家になりたいと養父母に相談を持ちかけますが、家業を継いで欲しかった養父母は反対し、京都・烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公に出されます。
丁稚奉公や下働きをしている間、書の研究に打ち込み、21歳で日本美術展覧会書の部で一等を受賞するなどその才能を開花させていき、京橋南鞘町の町書家・岡本可亭の住込みの弟子となります。
その後、書道教授の看板をかかげて独立し、「福田鴨亭」と号して看板、版下書き、書道指南などで生計を立てていました。
中国北部を旅行し、書道や篆刻を学び、朝鮮総督府に書記として勤めた後帰国すると、長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供され「福田大観」という号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を残しました。
こうして竹内栖鳳や土田麦僊らと知り合う事になった北大路魯山人は日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていきました。
福田家の家督を長男に譲って「北大路」姓を名乗るようになった北大路魯山人は食客として各地を転々とした事で美食家としての才能を開花させ、やがて器にもこだわるようになります。
中村竹四郎と知り合うと古美術店の大雅堂芸術店を共同経営する事となり、古美術の目も培っていき、この頃に織部焼の魅力に取りつかれ、収集家としても目覚めます。
また、大雅堂芸術店では古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり、「会員制食堂・美食倶楽部」として発足し、北大路魯山人自らが厨房に立ち、料理を振る舞うようになり、やがて食器も自ら作成するようになりました。
その後、中村竹四郎が社長、北大路魯山人が顧問となる会員制高級料亭を星岡茶寮ではじめ、そこで使用する食器や茶器の制作を行うため、荒川豊三を招き、鎌倉に魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立し、本格的な作陶活動を始めます。
しかし、北大路魯山人は横暴さが目立つ性格であった事、こだわりすぎて出費が多かった事で中村竹四郎から解雇されてしまい、星岡茶寮を追放されてしまいました。
戦後は経済的に厳しく不遇な生活を送っていましたが、陶芸への情熱は冷める事がなく、制作活動を行っていました。
銀座に作品の直売所「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し在日アメリカ人から高い支持を受けるとロックフェラー財団の招聘でアメリカの各地で展覧会と講演会が開催されるようになり、世界的にも有名な芸術家となりました。
北大路魯山人が陶芸を本格的に手掛けるようになったのは初代・須田菁華の菁華窯の刻字看板を手掛けた事で、その出来に感激した初代・須田菁華がそのお礼に菁華窯に招いた事がきっかけでした。
その時、初めての染付であったにも関わらず、飲み込みの良さと持ち前のセンスで大胆な運筆と筆致の染付を行い、周囲を驚かせたそうです。