宮永東山(初代)は石川県出身の明治~昭和時代に活躍した日本の陶芸家です。
本名は剛太郎といいます。
東京独逸全修学校を卒業後、改めて東京仏語学校で語学とフランスの文化の歴史を学び、横浜のドイツ系商社のウィンクレル商会に入社しました。
その後、東京美術学校講師をつとめ、岡倉天心の助手として欧米諸国の美術施設の調査を行い、各国の美術工芸を視察、仏国政府よりオフイシエー・ダカデミー章を贈られました。
その才を認められ農商務省に奉職し、パリ万国博覧会の事務局に勤務することになりました。
文部省から西洋画研究のために留学を命ぜられパリに滞在していた浅井忠に出会った事が、芸術家としての道を志すきっかけになりました。
また、パリ万国博覧会視察の為に滞在していた7代・錦光山宗兵衛とも知り合い、帰国後、錦光山宗兵衛の娘と結婚し、陶芸の道を歩む事になり錦光山の工房で美術顧問として働くようになります。
そして、浅井忠指導のもと「遊陶園」の設立にも陶芸家として参加しました。
1909年に独立し、京都粟田口、のちに伏見稲荷山麓深草に陶窯を築き、陶作に励み次第に名声を上げていきます。
「東山」の号は小説家・幸田露伴によってつけられました。
中国の青磁、染付を研究し花瓶、茶碗、香合、建水などの茶陶を中心に彫塑的な獅子置物などを得意とし仁清系の粟田陶器を復興して美しい作品を残しました。
1941年12月15日、動脈硬化のため、74歳で死去しました。
子に宮永友雄(2代・東山)孫に宮永理吉(3代・東山)がいます。
1867年 石川県に生まれる
1895年 東京美術学校講師としてつとめる
1897年 農商務省に入る。パリ万国博覧会臨時事務局に勤務
1899年 千九百年巴里万国博覧会に際し出張する(滞欧2年)
1901年 帰国。
1903年 「遊陶園」の設立に参加
1909年 京都粟田口、のちに伏見稲荷山麓深草に陶窯を築く
1941年 12月15日、動脈硬化の為74歳で死去
『青瓷葡萄象嵌文花瓶』
『彩釉蕪文花瓶』
『琅玕釉獣耳壷』