江戸出身の江戸時代末期~昭和時代に活躍した陶工で、ガラス・煉瓦製造・蒔絵・造船など多種多才であった事で知られています。
その中でも根付、数珠、簪(かんざし)や笄(こうがい)の珠は「乾也玉」の名で広く知れ渡り、当時大流行し、人気を博しました。
幕府の御家人の子として生まれた三浦乾也は、12歳の頃から陶工であった伯父・井田吉久に作陶を学びました。
その後、茶人として知られている西村藐庵(にしむらみゃくあん)に師事しており、乾山焼の修行に励みます。
西村藐庵は5代・乾山を名乗っており、後に西村藐庵から「乾山楽焼秘書」を授かり三浦乾也も6代・乾山を名乗るようになります。
その後、日本画や彫刻などを学び漆芸家・小川破笠(おがわはりつ)が編み出した破笠細工の蒔絵を修得します。
その一方でガラスや煉瓦の製造を行い、幕命により長崎でオランダ人技師に造船術を学んで仙台藩で洋式軍艦開成丸を建造するなど多才ぶりを発揮し、「鬼才」と称されていました。
また、仙台藩で軍艦を建造していた際に助手をつとめていた庄司義忠に「乾」の一字を与え、「乾馬」の号を贈り、「乾山楽焼秘書」を模写させます。
これは堤焼に乾山流陶法が根付く要因となりました。
ちなみにこの堤焼とは伊達藩御用窯として始まり、粗く優れた地元の土を活かした素朴さと黒と白の釉薬を豪快に流し掛けた海鼠釉(なまこゆう)が特徴の焼物で、伝統工芸品である堤人形もこの堤焼で作られており、土が凍って焼物を作れない冬の間の作業として陶工たちが生み出した土人形で、京都の伏見人形とともに土人形の二大源流と称され、岩手の花巻人形や福島の三春人形にも影響を与えたといわれています。
明治時代に入ると三浦乾也は東京に居を構え、陶工として活動を積極的に行い、尚古園焼を創窯し、飯能焼の復興に尽力しました。
その後は東京向島にある長命寺に移り、境内に窯を築き作陶を続けていたようです。