安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した釜師で、名乗りは満頼、三昌、通称を弥右衛門といい、浄味は号になります。
京都の釜師・名越善正の長男として生まれ、京都名越家を継ぎ、初代・浄味として活躍し、釜師としては小堀遠州、本阿弥光悦好みの釡を制作している事でも知られています。
豊臣秀頼の命を受け、京都方広寺の梵鐘鋳造で鋳物師の棟梁をつとめ、その功績で越前少掾(えちぜんのしょうじょう)に任じられました。
この梵鐘はのちに豊臣家滅亡のきっかけとなった大坂の陣の引き金となっており、その理由が梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽 子孫殷昌」の文字が家康にとって自分の名前を分断し、豊臣家の繁栄を願っていると抗議した事はとても有名です。
ちなみにこの梵鐘の銘文を考えたのは東福寺や南禅寺で長老となった文英清韓です。
また、子孫にも浄味を名乗る者がいるので区別して「古浄味」とも呼ばれており、弟に江戸名越家を興した名越家昌がいます。