楽常慶は戦国時代から江戸時代初期の陶芸家で、楽家当主として2代目楽吉左衛門を襲名しています。
楽家を正式に名乗り、吉左衛門を字として使用したのは常慶であるとされています。
初代長次郎と共に利休好みの楽茶碗を制作し、常に利休の傍に居る人物とされている田中宗慶の次男として生まれました。
初代長次郎の息子ではなく宗慶の長男でもない常慶が跡取りとなったのは、利休と秀吉の対立による利休の切腹がきっかけで、利休に一番関わりの薄かった常慶が当主として採用されたという逸話もあります。
楽常慶は長次郎の実子ではない田中宗慶の子でありながらも楽焼の工房を統率し、現在の楽焼の基礎を築き吉左衛門を名乗るようになりました。
また徳川幕府との関係構築に成功し、金印、楽印を徳川秀忠より受け賜ったとされています。
そのため、徳川秀忠が没した際には墓前の香炉を制作しました。
楽常慶の作風としては長次郎によって生み出された楽焼の思想を受け継ぎつつも自由を好んだ古田織部の影響を受けているため造形に特徴があります。
また常慶は還元釉の黒色と酸化釉の赤色のみでしたが新たに白楽や香炉に使われる香炉釉「白釉」を完成させた事でも知られています。
楽常慶は本阿弥光悦と親交があり光悦に楽茶碗の技法を伝授したとされており、光悦はその後に多くの楽焼を残したといわれています。