正阿弥勝義の品を買取ります
正阿弥勝義は岡山県出身の明治時代に活躍した日本の金工家です。
精緻な彫金、高い写実力・質感表現、多様な金属による色数の多さ、光沢の美しさは全体に技術レベルが高い明治期の彫金師の中でも群を抜いており、「超絶技巧」というべき高い技巧を誇っていました。
刀装具出身の金工家だったため、鉄の錆地の美しさも正阿弥勝義の特徴の一つです。
作品は海外の収集家たちの間で評判となり、多くの作品が国外へ流出しています。
そんな正阿弥勝義の作品を国内で所蔵しているのは、東京国立博物館、林原美術館、清水三年坂美術館、岡山県立博物館、岡山県立美術館、倉敷市立美術館などが挙げられます。
津山藩お抱えの彫金師・中川五右衛門勝継の三男として生まれた正阿弥勝義は、幼名を淳蔵、通称は淳蔵といい、勝義は工名として用いていました。
幼い頃から父に彫金を学んでおり、江戸出府の方便として津山藩先手鉄砲隊小山家の継嗣となりました。
しかし、江戸から帰郷すると養子関係を解消し、岡山藩御抱え彫金職人の名家・正阿弥家の婿養子となりました。
後に正阿弥家の9代目を継ぐ事になりますが、それまでは江戸幕府お抱えの彫金家・後藤家の門人で江戸幕府及び朝廷の御用職人を務めていた実兄・中川一匠や、兄の師である後藤一乗に指導を受けました。
しかし、明治維新後の日本では廃藩置県が行われ、正阿弥家は岡山藩の庇護を受ける事ができなくなり、更に廃刀令によって刀装具の仕事もなくなってしまったため、経済的に困窮します。
そんな中、正阿弥家はこれまでに培ってきた技術をいかして新しく、花瓶や香炉などの室内装飾品や彫像などの美術工芸品や茶器などを制作し、生計を立てるようになりました。
こうして、職人30名余りで輸出産業を起し、神戸の貿易商・濱田篤三郎の紹介でイギリス商人と売買契約を結ぶ事に成功します。
ところが、不正な手段を用いて利益を得ようとする悪賢い商人によって粗悪品が出回ったため輸出業を中止し、美術工芸品に専念する事になりました。
その高い技術力で生み出された作品は、国内、海外問わず精力的に博覧会や美術展に出品した事により、海外での知名度も上がり、注文を受けるようになりました。
経済的にも安定した正阿弥勝義は、更に作品のレベルを高めようと、美術研究のために京都へ移住します。
京都の伝統文化は大きな刺激となり、現在、正阿弥勝義の作品として高い評価を受けているものは、京都移住後から亡くなるまでの10年間に制作されたものがほとんどです。
しかし、晩年はこれまで支えてくれたパトロンたちが離れていき、借金を抱え、心身ともに疲れ果て脳卒中でこの世を去りました。
正阿弥勝義は非常に真面目で几帳面な性格だったとされており、起きている時間のほとんどを作品制作に使っていました。
朝起きて近所にある稲荷にお参りに行く時以外は外出せず、休日も正月と葵祭の2日だけだったそうです。
また、同時に複数の作品を制作する事も多く、これまでに多くの作品を制作してきました。