福岡県出身の昭和~平成時代に活躍した日本の陶芸家です。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、黒田藩藩主・黒田長政が朝鮮から連れ帰った陶工が黒田藩の御用窯として開窯して制作されるようになった高取焼の宗家として今日まで残る窯の11代目を襲名し、廃藩置県によって一度廃窯となってしまった窯を復興させた事で「高取焼中興の祖」と呼ばれています。
女性ながらもただ一人の直系子孫として高取焼宗家の再興に尽力し、高取焼の歴史を守った事は現在でも高く評価されています。
高取焼宗家10代・富基の長女として裕福な家庭に育った高取静山は、本名を静といいます。
父親の事業の失敗によって大学進学をあきらめた高取静山は、村の小学校の代用教員として働き、その後、勉強のために上京して保険や雑誌編集の仕事をしながら夜間の日本大学で国文学を学んでいました。
そのまま東京で結婚し、3人の子供を授かり幸せに暮らしていましたが、父親が廃藩置県によって廃窯してしまった高取焼の窯を再興する事になったため、東京と福岡を往復しながら父親の手助けを行うようになります。
父娘の二人三脚で苦労を重ねていましたが、父親は心労がたたりこの世を去ってしまいました。
こうして一人になってしまった高取静山は戦争や離婚などの困難を乗り越え、女である事を捨て、貧困と闘いながら50歳の時、ついに高取焼宗家再興の初窯開きが行われ第1回個展を三越本店で行う事ができました。
これを機に遠州流宗家11代・宗明宗匠から陶号「静山」を賜り、11代・高取静山として活動を行うようになると各地の百貨店で精力的に個展を開催しており、高取焼の初代である八山の故郷である韓国を訪れ、韓国でも個展を開催し、帰国後は韓国をはじめ海外より弟子を迎え、作陶技術を伝えるなど高取焼の伝統を守り続けました。