京の町のほぼ中央に位置する「釜座(かまんざ)」に現在までに残る1855年創業の釜師が代々襲名する名前で、当代で6代目となっています。
「座」とは、現在で言う商工業者や芸能者による同業者組合の事で、「座」は平安遷都とともに、奈良から鋳物師が移り住み「座」を結成した事からその歴史が始まり、安土桃山時代には茶道の隆起とともに釜座も数多くの名工を輩出してきました。
しかし、他の座が衰滅する中で釜座のみが存続し、高木家もそんな中で釜師として創業しました。
初代は釜師・大西浄雪の門人として学び、高木家に婿養子になったことから高木治良兵衛を名乗るようになります。
2代は富岡鉄斎との親交もあり、鉄斎翁・蓮月尼画賛入の釜を多数制作しており、3代もそのまま引き継ぐ形として鉄斎好みの釜の制作をする傍ら、茶道各流好みの風炉釜なども手掛けるようになりました。
4代になるとそれまで主流であった打肌に挽肌の技術を取り入れ、水墨画タッチで地紋を表現する新しい京釜の制作を行うようになり、5代が42歳という若さで亡くなってしまった事から、5代の義理の弟が6代として侘びた味わいの治良兵衞釜を制作し、今では釜座町に残る釜師として伝統の技術を守りながら、この伝統を絶やさぬようしっかりと技術を若者に伝えています。
また、作品は茶釜以外にも鉄瓶や建水、蓋置など金工師として茶道具の制作も行っており、数多くの作品が存在します。