1864.3.26-1931.10.1
明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家、故実家。
歴史考証を重んじて精緻な歴史画を志したと同時に、大和絵の伝統を用いて新しい歴史画分野を確立させ、高い画格を修めて「近代歴史画の父」とも称されています。
下野国安蘇郡(現・栃木県佐野市)に農家を営む傍ら武者絵などを描いた画家、父・須藤晏斎の3男として生まれました。15歳の頃より、父や同じく画家で主に山水画を得意とした長兄の桂雲から本格的な絵の指導を受けるようになります。20歳になる目前に、兵役を免れるようにとの父の配慮から生家の近隣で廃家となっていた小堀家の養子となり家督を相続しました。
間もなくして上京し、故実に優れ、見識の高さからもよく知られた批評家、川崎千虎(ちとら)に入門し、歴史画と有識故実を学びながら雑誌の挿絵を手掛けるようになります。
日本絵画協会青年絵画共進会に出品した作品で一等褒状を受けると、この頃から雅号を「雨舟」から、師の川崎千虎の本名「鞆太郎」の一文字より「鞆音」と改めます。「鞆」とは弓を射る為の武具であり、弦があたり音を発するという意味合いとされています。
書家として成功を収めた小堀は、画塾間の交流を図るため、日本画家である川端玉章らの働きかけで設立した日本青年絵画協会に参加。また、創立にも携わった日本美術院の正会員となり、東京美術学校助教授に就任し、次々と活躍の場を増やします。しかし翌年には当時の校長であった岡倉天心を辞任に追いやり、それに反発した教授ら34名が辞職届を提出した、いわゆる『美術学校騒動』が起こり、師の川崎千虎と共に同校を1年足らずで退職しています。
当時もっとも注目されていた絵画ジャンルである《歴史画》の第一人者として地位を確立していた小堀は、内国勧業博覧会や日本絵画協会、日本美術協会など主要な展覧会で高い評価を受け、1907年に開設した文展では第1回より審査員つとめます。その翌年には東京美術学校に教授として復職。安田鞍彦、尾竹国観、師である川崎千虎の孫にあたる川崎小虎など、多くの門下生を育てました。
53歳で宮内庁より帝室技芸員に任命、その2年後には森鷗外を院長とした帝国芸術院会員に川合玉堂や富岡鉄斎らと共に選出されます。
さらには、国宝保存会委員を歴任して、勲三等瑞宝章を受賞。勤皇家としても知られた小堀は60歳を過ぎ、東京美術学校を退職した後、明治天皇の業績を称える聖徳記念館に展示するための絵画制作に挑みます。しかし、後にその図案が切手に採用されることになる「東京御着輦」制作中に病に倒れ、享年68歳でその生涯を閉じました。
寡黙なことで知られた鞆音が ある雑誌の談話で述べた自身の歴史画感を集約した貴重な言葉として残されています。
正確な故実考証に基づくことで真髄を究め、歴史画の第一人者としての地位を確立した小堀鞆音は、武士を画題にした作品を得意としました。絵に登場する武士の鎧や兜の形、色はもとより、意匠に至るまで実に正確に描かれ、背景を彩る屋敷や調度品に至るまで徹底した考証をもとに表現したことで知られています。また、絵画のみならず、有識故実の研究にも情熱を注いだ小堀は、厳島神社に奉納されている国宝「紺絲威鎧」の修理を完成させ、また同じく国宝である「小桜韋黄返威鎧」を3年がかりで模作しています。さらにそうして復元した甲冑を自ら身に付けた写真を撮影させ、それらがさらなる故実研究の史料となり、他の画家たちの制作にも多大な影響を与えました。
写真技術の発展や第二次世界大戦の敗戦をきっかけに日本国内での価値観が大きく変わり、一時、歴史画の需要は低下の一途を辿ります。しかし、東京大学教授で比較文学者の鞆音の孫にあたる小堀桂一郎らの顕彰活動によって1980年以降、展示会などが開かれるようになり、現代においてその芸術性が再び高い評価を受けるようになりました。
1864年 須藤晏斎(本名・惣兵衛)と妻美奈の3男として生まれる
1875年 小学校4年修了。母校で代用教員となる
1877年 教員を辞して学習塾に入塾。国学・漢学の薫陶を受ける
1878年 生家で父晏斎より絵画の描法を学ぶ
1883年 近隣の小堀家に養子として入る。雅号を雨舟とする
1884年 内国絵画共進会第1回に『南朝三傑』を出品。後日、読売新聞に鎧の考証の不備を川崎千虎によって指摘された記事が載る。上京し、月岡芳年、川邊御楯の門を叩くが入門には至らず、結局厳しい評をもらっていた川崎千虎に懇願の末、入門を許可される
1889年 『絵画雑誌』のための古書模写の仕事を得て、自作の掲載も認められる。共進会に『知盛八島之園』で一等褒状に輝く。この年を境に、鞆音の雅号を用いることが多くなる
1890年 鈴子と結婚。媒酌人は同郷人の田中正造がつとめた
1892年 岡倉天心、橋本雅邦らが発起人の日本青年絵画協会の創立に参加。第一回共進会審査員を務める
1897年 東京美術学校助教授に任命される
1898年 美術学校騒動が起こり社会的議論を呼ぶなか、助教授を退職。日本美術院に正員として参加
1902年 歴史風俗画会を設立。メンバーには関保之助、高橋廣湖、下村観山、富岡永洗など。生涯唯一の師・川崎千虎が病死
1908年 東京美術学校教授に任命される
1913年 内務省より古社寺保存会委員に任命される
1917年 帝室技芸員に任命される
1919年 森鴎外を院長とした帝国美術院が創立され、会員となる
1922年 勲四等瑞宝章を受章
1931年『二条城太政官代行幸』など新たな作品に着手するも背中の腫瘍が悪化、癌と診断される。病巣を取り除く手術を受けるも死去
●大阪後之役図 (1890年)
第一高等学校により買上げられた作品。若い鞆音にとって至って名誉だったことと思われ、鞆音の出世作として知られる
●武士 (1897年)
日本絵画協会第2回展に出品し、注目を集めた
●常世 (1897年)
第3回共進会出品作品
●平治合戦(1905年)
安田靫彦などの高弟達の折紙付の傑作といわれる六曲一双の屏風画
●鷹狩(1913年)
皇太后の御所を青山に新築するにあたって制作された作品