【小川一眞】帝室技芸員の買取作家・取扱い一覧

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小川一眞

小川一眞
小川一眞(1860)

1860年9月29日―1929年9月6日


明治から大正時代にかけて活躍した写真師、印刷技術師。

アメリカで学んだ最新の写真技術を日本に持ち帰り、当時の日本ではまだ一般には普及していなかった乾板による撮影を行ったほか、日本乾板会社を設立して乾板製造の国産化に着手しました。

日本における写真文化の発展に大きく貢献し、写真師として初めて帝室技芸員に任命されています。旧千円札の原画となった夏目漱石の肖像画の撮影も、小川一眞が行いました。


アメリカ留学を経て

小川一眞は幕末期、武州行田(現在の埼玉県行田市)忍城下の成田町にて、藩士原田庄左衛門の次男として生まれ、3歳で忍藩士小川石太郎の養子となります。

10代後半から写真師として活動を始め、22歳でアメリカ海軍軍艦スワタラ号に乗り込み横浜を出発。ボストンにて最新の写真、印刷、乾板製造を学びました。

帰国後は身に付けた技術で写真館「玉潤館」を飯田町(現在の飯田橋)に開業するとともに、写真製版業、出版業を興し、印刷・出版業界に改革をもたらすとともに、写真を軸とした一連の事業を展開します。


明治の文化財調査と小川一眞の役割

人々の価値観を変容させた明治維新の急激な社会変化は、やがて神仏分離令(1868年)に端を発した廃仏毀釈(仏教排斥運動)に繋がります。当時の仏教寺院は経済的困窮による荒廃や、貴重な文化財の破壊や破棄など大きな痛手を被りました。そこで明治政府は「古器旧物保存方」(1871年)の太政官布告を発して危機に瀕していた文化財の実態調査を行います。


調査は大規模なもので、宮内庁から九鬼隆一フェノロサ、内務省から丸岡莞爾伊藤博文、文部省から岡倉天心などが参加し、さらに調査員として東洋美術の専門家や文献的歴史的研究の専門家も加わり、数多くの人々が調査に携わりました。これらのメンバーに記録撮影のために随行したのが小川一眞でした。


この頃には全国的に写真館が開業し、国内でも数多くの写真師が生まれています。しかし、小川が文化財調査の記録撮影者として選ばれたのは、彼が他の写真師とは異なり、撮影と共に印刷の技術も身に付けていたという点でした。それまで対象物を「写す」ことが目的であった写真を、小川はひとつのツールとして捉え、印刷術と結びつけることでその可能性を更に広げようとしていたのです。


調査のための創意と工夫

小川による文化財調査の記録撮影には、彼が知り得ていた最新の写真技術が駆使され、独自の工夫や新しい試みが取り入れられています。


第一に、国内ではまだ商品化されていなかった乾板の性能に精通していた小川は輸入乾板を使用して撮影を行っています。乾板は湿板とは異なり、長期間の貯蔵が可能で、撮影後もその場で現像する必要がないため、まとまった数量を撮影することができました。


第二として、当時の最新技術であったマグネシウムを焚いてのフラッシュ撮影が挙げられます。小川は堂内の暗い場所にあった銅仏のように重く大きなものや、壁面のように動かし難いものを撮影する時にこの技法を使っています。


第三の試みとしては当時の日本では珍しかったプラチナプリントに焼き付けたことです。通常の白黒写真の銀塩とは異なり、この技法は耐久性に優れ、長期にわたって良質な画像を保つことができるという利点からも、後世に残さなければならならない文化財の現像技法としてふさわしい技法だったと言えます。


確かな技術に加え、小川の撮った写真は対象物の特徴を捉え、ありのままを写しとろうとする素直な視点や構図からも、その魅力と存在感を十分に伝えるものとなりました。


コロタイプの実用化に成功した小川一眞

小川が留学時に習得したコロタイプ印刷技法とは、元は写真の退色を補うためにヨーロッパで発明された方法でした。さらにこの技法は、ゼラチン表面にできた細かなシワを使うことで、なめらかで深みのある仕上がりを可能にしただけではなく、ネガから直接製版するため、極めて精緻な画像が得らえるようになりました。


当時、芸術作品の撮影に適したとされるこの技法はアートタイプとも呼ばれ、再現度の高さから最先端の技術として高く評価されました。


当初は調査のために撮影された小川一眞の写真は、その後、このコロタイプの技術を発揮して日本最古の美術雑誌『國華』や『真美大観』などの美術史本に掲載・出版され、国内外に広まりました。


さらに、小川による精度の高いコロタイプ印刷は、写真によって作品を鑑賞するという、それまでにない文化を創り出すことに繋がりました。

小川一眞年表

1860年 武蔵国忍(埼玉県行田市)に生まれる

1863年 行田藩士小川石太郎の養子となり、一眞と名を改める

1875年 吉原秀雄に師事し、湿版式写真を学ぶ

1880年 築地にあったバラ―学校に入学して英語を学ぶ

1881年 横浜の外国人居留地で警察の通詞として勤め、同時に下岡太郎次郎に写真術を学ぶ

1882年 アメリカ海軍軍艦に水兵として乗船して渡米、乾板製法・写真製版・コロタイプの技術を学ぶ

1885年 東京麹町区に玉潤館を開業。写真師として本格的に活動を始める

1888年 宮内省・内務省・文部省による宝物調査に写真師として同行

1889年 美術雑誌『國華』の創刊に協力し、コロタイプ印刷による図版を作成する

1907年 日本乾板株式会社を設立。現在の神奈川県平塚市に工場を設ける

1910年 写真師として唯一帝室技芸員として選ばれる

1913年 小川写真研究所を創立、乾板製造を追求する

1929年 神奈川県平塚市にて死去。享年70歳

小川一眞代表作

●無著菩薩像(撮影・1888年)

興福寺北円堂に世親菩薩像とともに安置された運慶率いる仏師らによる名品を撮影。『國華』創刊号掲載


玉菊(撮影・1890年)

浅草・凌雲閣で行われた「百美人」展をまとめた写真帖に登場する一枚


●雪の日の外出姿の女性(撮影・明治後期 印刷・1898年)

日本の風俗を紹介した英語版写真集『Photographs of Japanese Customs and Manners』に掲載された写真


金閣寺 (撮影:明治後期)

1950年、放火により焼失、1955年に再建された。写真は焼失以前のものとして貴重


夏目漱石(撮影・1912年) 

千円札紙幣に使用された原画。県立神奈川近代文学館蔵 





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