本名 細野福松
江戸大天馬町生まれ
1853-1923年
明治から大正時代にかけて活躍した漆芸家、蒔絵師
明治維新後の文明開化のなか、江戸時代の優れた技法を守りながらも独自の新しい技法や意匠を生み出し、高い技術力と功績から近代漆工界の第一人者と称され、蒔絵師としては4人目の帝室技芸員に任命されています。
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「蒔絵」と聞いて思い浮かべるものと言えば、お正月の重箱や会席料理のお吸物碗でしょうか。あらたまった席やもてなしの席では欠かせない蒔絵の器。艶やかな漆器の肌に金をまとった蒔絵は日本の漆技法のなかでもとりわけ華やかで、日本で誕生して発展した世界に誇るべき漆芸です。
その名の由来には、『末金鏤』(まっきんる)が語源とされる説もありますが、漆の地の上に漆で文様を描き、それが乾かないうちに金粉を蒔くと、漆が糊の役目をして貼りつき文様が彩られ、金を「蒔く」ところから「蒔絵」と呼ばれるようになったと言われています。
蒔絵は大別すると3種類の技法に分けられます。
奈良時代に遡る最初の技法「研出蒔絵」は、金粉を蒔きつけたあと、全面に漆を塗りこみ、乾かしてから金粉を研ぎ出す技法で、表面が平滑なのが特徴です。
次いで平安時代後期に登場し、鎌倉時代に完成したのが「平蒔絵」で、金粉を蒔きつけた部分にのみ漆を塗り、磨いて仕上げることから、文様がわずかに盛り上がって強調されます。
「高蒔絵」は鎌倉中期から室町時代に開発された技法で、漆に金属粉や炭を混ぜることで粘土の高い漆を作り、それを文様に塗ることで盛り上がり、より立体的な表現が可能になりました。
塗・彫漆・螺鈿などでも多くの優れた作品を遺していますが、なかでも研出蒔絵を得意とした白山の作品はいずれも気品に富み、一切の妥協を感じさせない精巧さと緻密さで追随模倣を許すことなく、国内での高評価はもとより海外でも人気を博しています。
白山松哉は、幼少の頃より美術品に興味があり、若くして蒔絵の技術を小林好山に師事し、堆朱・椎黒や螺鈿の技術を蒲生盛和に学んでいます。
その白山が漆工として活躍を始めた頃、時代は明治維新による大きな変貌をとげようとしていました。
他業界で多くの職人が職を失って生活に困窮していたように、漆工界もまた、人々の生活様式が変化したことで生産と需要の両面でその支柱を失い、衰退の一途を辿ります。
この衰勢を挽回するため様々な奨励が繰り返され、明治以降の漆工界は目まぐるしく変転しました。
松哉が青年時代に勤務した起立工商会社設立もその奨励方法のひとつでした。
諸大名や商人など高級漆器の国内での主な需要家を失い、大きな危機に直面した漆工界を救うきっかけとなったのが欧米への輸出です。1873年に行われたウィーンの万国博覧会で具体的に日本を売り込む足掛かりをつけた明治政府は、民間人の起業家・松尾儀助を社長に就任させて貿易会社を設立し、西欧でコレクションとして漆工品を始めとした日本の工芸品に対する高まる評価と需要に対応しようとしたのです。
1874年に開業したこの国策会社は、延べ11の海外万博に出品し、1877年にはニューヨーク支店、翌年にはパリ支店も構えますが、政府の経済的援助の停止から1891年に倒産します。しかし、会社設立から解散までの17年間は、白山松哉ほか、芝山専蔵、小川松民、池田泰真らに漆工として自身の技術を磨く場を与え、明治を代表する名工を輩出することに繋がりました。
さらに明治政府は1889年に東京美術学校を設立し、漆工技術の継承と向上を目的とする漆工科を設置して従来の師弟制度によらない技術教育を行います。白山は転職して初代教授として後進の指導にあたり、守屋松亭や鵜沢松月を始めとする多くの優秀な門下生を育てました。
また宮内庁は各種専門技術に卓越した作家に対し、帝室の技術員を命ずる帝室技芸員制度を設けます。白山松哉は漆芸家・蒔絵師として、柴田是真、川之辺一朝、池田泰真らに次ぎ4人目の帝室技芸員に任命されました。
色や大きさ、形の違いなど、蒔絵を制作する金粉は数百種類にも上ると言われています。白山は、それを知り尽くし、独特な感性で蒔絵に奥行と豊かな表情を与え、肉眼では見えるはずのないミクロ単位の高低差にまでに及ぶ精細さで作品を仕上げました。また、さまざまな技法を駆使して作品を完成させ、ひとつの幽玄な世界を作り上げた白山松哉。現代漆工芸の礎を築き、明治以降、常に日本の漆工芸の水準を高めてきた名工の作品群は今もなお人々を魅了してやみません。
1853年 江戸大天馬町に生まれる
1869年 小林好山に蒔絵を学ぶ
1874年 21歳で起立工商会社に就職。蒔絵の技術を体得する
1881年 第2回内国勧業博覧会にて褒状を授与される
1891年 東京美術学校の助教授に就任。翌92年には教授に就任
1900年 パリ万博に出品し名誉賞を受賞。世界的に高い評価を受ける
1906年 帝室技芸員に選出される。農展の審査員として採用される
1922年 東京美術学校を退官
1923年 享年71歳にて逝去
●渦文蒔絵香合
粘度の強い漆で同じ太さの細い線をすべてフリーハンドで連続して描くことは至難の業と言われています。それを同じ感覚で渦巻きに仕上げた白山の高度な技術が詰まった作品
●日月鳥鷲図蒔絵額
朱漆で塗られた朝日を浴びる水辺の鷺と月夜に浮かび上がる烏の2枚の蒔絵がそれぞれ額に入り、対になった作品
●鳥蒔絵菓子器(1912年)
東京国立博物館所蔵。八角形・印籠蓋造の箱。五段に分かれ、蓋裏には黒漆を塗って銀の細粉を淡く蒔き、銀の研出蒔絵で小鳥の群を表している。漆芸技術の集大成と言われる逸品
●梅蒔絵硯箱
東京国立近代美術館蔵
●蝶牡丹蒔絵沈箱
MOA美術館蔵