幕末から明治にかけて活躍した南画家
1825-1898年
豊かな色彩と柔らかで穏和な筆法を特徴とした花鳥画や山水画に秀で、とくに菊を主題とした作品を数多く遺しています。
幽谷(通称 巳之助)は、1825年江戸神田町の大工職の家に二男として生まれました。幼い頃より刀盤に親しみ家業を助けますが、15歳で父を失ったのきっかけに当時著名であった宮大工の鉄砲弥八に入門して製図を学びます。
しかし絵画への志が強かった幽谷は、弥八の勧めもあり製図のかたわら知人の伝手を頼りに肖像画や花鳥画で人気を博していた椿椿山(つばきちんざん)を訪ねて画塾・琢華堂に入門し、かねてから念願であった画道の精進につとめます。
さらに椿山の薦めもあり、この頃より幽谷は朱子学で知られた大黒梅陰に就いて漢学も学んでいます。
母との暮らしを支えるため、幽谷は日中図面を製作して働き、夜になると眠る間を惜しんで書と画の習得に勤しみました。入門よりわずか数年後の1854年、師の椿山が急逝すると、幽谷は大工の仕事を辞めて画道に専念する傍ら、寺子屋を開いて子供たちに学問を教えて家計の足しにし、苦しい生活を凌ぎました。
1855年安政の大地震で多くの家屋が崩壊し、復興による利を求めようと工賃が暴騰すると幽谷の困窮を極めた生活を見かねた周囲の人々は、幽谷に大工の仕事に復職するよう助言します。しかし幽谷は再び大工の仕事に戻ろうとはせず、画道精進を貫き通します。
幽谷は1872年文部省博物局が初めて主催した湯島聖堂博覧会において「振威八荒」の大作を出品し優等賞を受賞、以来内国勧業博覧会や絵画共進会など主要な展覧会において数々の受賞を重ね、画家としての名声を確立させていきます。
輝かしい受賞歴を経て、様々な絵画会において審査員を歴任して重責を担うようになった幽谷は、明治初期の南画壇において花鳥画の第一人者としての活躍を果たしました。
また宮中の御用画をつとめ、皇居造営に際し数多くの障壁画や杉戸絵を献納し、1893年には宮内省により帝室技芸員に任命されています。
幽谷作品の中には「幽谷生」の落款が記されているものがあります。
幽谷は大家として名が馳せても尚、落款や印章に「幽谷生写」と修業中の身であることを意味する「生」の字を使い続けました。画商などから「生」の字があると絵の価値が下がるからやめるよう忠告されますが、耳をかさず「自分は未だ師を超える絵を描けていない。それができない内は作品に『生』の字をつけ続ける」と答えています。
幽谷は、生涯の師であった椿山、また椿山が大きな影響を受けた椿山の師・渡辺崋山も模範として両師の教えを重んじました。また、宮中より席画を仰せつかった際には椿山の遺品であった墨で汚れた紋付き袴を着て明治天皇に参上したことからも、生涯を通して師風に誠実であっただけでなく、人として師を慕っていたことがわかります。
また幽谷の画塾和楽堂で画を学んだ椿椿山の孫にあたる椿二山による『野口幽谷之像』にも描かれているように、幽谷はその生涯をちょんまげで通したことでも知られています。
門下生には他、松林桂月や益頭峻南などがおり、人情に厚く実直で誠実であったといわれる幽谷の人柄は、幽谷が亡くなったあとも多くの人によって語られました。
1825年 江戸神田町に生まれる
1850年 椿椿山に入門して花鳥画を学ぶ
1854年 椿山死後、寺子屋を開く。渡辺崋山の画風を独学で学ぶ
1872年 ウィーン万国博覧会に『雌雄軍鶏』出品
1877年 第1回内国勧業博覧会『竹石図』で褒状を受賞
1882年 内国絵画共進会に『菊花図』出品
1888年 日本美術会展『矮竹子母鶴図』などで銀牌を受賞
1893年 帝室技芸員に任命される
1895年 第四回内国勧業博覧会『菊鶏図屏風』で妙技二等賞受賞
1898年 死去
●菊花ニ鶏
幽谷が最も得意とした菊花のモチーフのなかに鶏の団欒が描かれている。格調高い図柄や装飾からも幽谷渾身の作であったことが推測される。
●猿ニ激潭図
菊花図の『静』の華やかさとは対照的に、絶壁に迫る激流と上方に木の枝を頼りに流れを渡ろうとする猿をほぼ全て墨描きによる力強い調子で『動』が表現されている。
●孔雀牡丹
赤・青・紫の異なる色の牡丹と美を競うように孔雀が風光明媚に描かれ重厚な美しさを感じる作品。朱文方印「幽谷」の印が捺されている。
●渓上水仙花図
帝室技芸員を拝命した翌月に制作し、その後日本美術協会展覧会にて銀牌を受賞した作品