幕末~明治時代に活躍した日本の南画家です。
本名は芸または明義といい、号は梅溪(梅渓)、白石子、後楽生など数多くあります。
幼い頃から親戚の金井烏洲(かないうじゅう)に画を学び、20歳のときに藩士をやめて谷文晁・渡辺崋山らに師事し、更に画技を磨き足利藩のお抱え絵師として活躍する一方で、藩士としても志士たちと交友を深め、尊王の志を強くし、幕末・維新の動乱期には誠心隊(せいしんたい)という民兵組織を結成し治安維持にあたり、足利を戦火から守るなど活躍を見せました。
維新後は画業に専念するようになり、日本の古画や中国の書風を研究し、独自の画風を築き、草雲の南画山水は、スケールの大きさと繊細さの調和がすばらしいと国内外で評価されました。
他にも、絵と同様に武術も好み、長身(6尺・約180㎝)であった早雲は剣術や柔術に巧みであったと言われており、書画会にて自分の絵を非難する愛艇には拳で殴りつけ「あばれ梅渓」のあだ名をつけられ、横浜に遊びに行った際にボクシングを使うアメリカ軍水兵と喧嘩になり、体落としで相手を倒すなどのエピソードが残されています。
また、頑固な一面も見られ草雲が出品した展覧会で、金牌なしで銀牌2名(うち1名が草雲)となることが立て続けに起き、これを地方在住者である自身へのあてつけと考え、以後、中央画壇と一切の親交を断ってしまい、帝室技芸員を拝命する際も地方在住者であるという理由で頑なに拒み担当者が必死に説得するなど、己の節は曲げないという江戸っ子としての「意地」の部分が草雲を大成させたと言っても過言ではありません。
1815年 江戸に生まれる
1835年 加藤梅翁の門下に入り号を梅渓とする
1843年 独立する
1850年 早雲の号を使うようになる
1855年 江戸から足利へ帰郷する
1858年 。安政の大獄の難を遊歴をすることで避ける
1868年 藩の防衛に努めた
1876年 第1回内国勧業博覧会 高評を得る
1878年 白石山房をたてる
1890年 皇居の杉戸図を描く。帝室技芸員を拝命
1898年 84歳で死去
『蓬莱仙宮図』
『富嶽図』
『花鳥図 3幅対』
『白華朱楼図』