明治時代後期~昭和時代中期にかけて活躍した日本画家です。
画風は花鳥画・人物画・歴史画など特に清楚な美人画を得意とし、昭和画壇を代表する一人に挙げられます。
また、後進の指導にも尽力し、京都市立美術工芸学校、京都絵画専門学校、両校の校長・教授を歴任しており、個人塾である菊池塾でも指導にあたっていました。
ちなみに旧姓は細野といい、菊池芳文の娘と結婚した事で菊池姓を名乗るようになりました。
幼い頃から絵を描く事が好きで、13歳で南画家・児玉果亭に入門し、「契月」の画号を与えられました。
小学校高等科を卒業してからは呉服屋、製糸工場、町役場で勤務し、そのかたわら中野町に滞在中であった高島雪松を尊敬し、模範として学びます。
ついに画家としての強い思いが抑えられなくなり、京都に出て南画家・内海吉堂に入門しますが、ここでは画風を受け入れる事ができず、それを見抜いた内海吉堂は菊池芳文を紹介され、画家としての転機となります。
菊池芳文は幸野楳嶺門下で、同門の竹内栖鳳・谷口香嶠・都路華香とともに「幸野楳嶺門下の四天王」とも呼ばれていた人物で、京都画壇正統の四条派の画法を会得していた画家であったため、菊池契月の画技はさらに磨かれていき、その実力は入門した翌年に発揮され、数々の賞を受賞していきます。
大正時代に入るとこれまで歴史上の故事に取材した作品にかわり、身近な風物を題材とした作品を多く描くようになりました。
そこには以前の作品では見られなかった鮮烈な色彩や不気味なまでに生々しい写実的表現が見られ、師匠から受け継いだ四条派の伝統を墨守するだけでなく、それを踏まえたうえで新しい独自の画風を確立しようとしていた事が伺えます。
また、菊池芳文が亡くなると菊池芳文が主宰していた画塾・菊池塾の主宰者となり、後進の指導にあたりました。
ヨーロッパへ留学してからは、ルネッサンス時代のフレスコ画や肖像画に深い感銘を受けており、古典的作品の偉大さや価値を再認識させられ、帰国します。
帰国してからの菊池契月は仏教美術・大和絵・浮世絵の諸作を研究、収集を行い、作品に反映させていきました。
しかし、戦時中の作品は戦(いくさ)を題材とした作品が目立つようになり、日米開戦以降は日本画家報国会による軍用機献納展や、帝国芸術院会員による戦艦献納展などといった展覧会に作品を出品し、志気高揚に協力していました。
こうして、晩年は大作を制作する事はほとんどなく、創作の中心は小品となっていき、その背景には持病の高血圧症の悪化によって引き起こされた体調不良だと言われています。