宮川香山(初代)は日本の陶芸家。本名、寅之助。通称、真葛香山。
京都の宮川長造の四男として生まれ当初、父の後は兄の長平が継いでいたが早逝したために19歳の頃に兄の家族を引き取って家督を襲名。1868年には父の後を継いで虫明窯の陶技指導に岡山に赴いている。
又71年には陶磁器の海外輸出を目指し横浜に開窯(以降横浜焼、横浜真葛焼などと称される)。しかし、当時の関東地方には陶磁器を作る土がなくこの地に工房を開くにはかなりの苦労を伴う事業だった。
薩摩焼を研究していくつもの制作、この工房の作を「真葛焼」と名付けて輸出したが金を多量に使用する薩摩焼は製作費に多額の資金を必要とするため、金で表面を盛り上げる薩摩焼の技法を、金のかわりに精密な彫刻を掘り込むことで表現したもので「高浮彫」と呼ばれる新しい技法を生み出す。1876年、フィラデルフィアバンコク博覧会に出品されると多くの国に絶賛され、真葛焼と宮川香山の名を世界に知らしめた。
他には、73年のウィーン万博で名誉金牌、89年のパリ万博金賞をはじめ国内外の展覧会で数々の受賞や活躍を示し世界に「マクズ・ウエア」として賞賛された。
また、96年には帝室技芸員を拝命している。
作品には上記の華やかで科学的釉薬を駆使した海外向け作品のほか陶器、磁器を問わず茶器などの茶陶や盆栽鉢などにも秀作が残り製作範囲の幅は広い。
1916年死去。享年75歳。
宮川香山の名は孫の宮川葛之輔が3代目を継いだが、横浜大工集で焼死。弟、宮川智之助が4代目加山を名乗ったが、復興は成らず、4代目で真葛焼きと香山の名は絶えてしまった。
『窯変洋紅釉花瓶』
『色絵染付椿花群鳥図花瓶』
『色絵鶴に松竹梅文茶碗』
『鳩桜花図高浮彫花瓶』
『色入菖蒲図花瓶』