棟方志功は青森県出身の版画家(板画家)で、自身の制作する木版画を「板画(はんが)」と呼び、一貫して木版画の特徴を生かした作品制作を行いました。
青森という豪雪地域に生まれた志功は少年時代に囲炉裏の煤で目を病み、それ以来極度の近視となってしまいます。そのため制作の際には、眼鏡が板に着いてしまう程に顔を近づけ、自身が好んでいた軍艦マーチやベートーヴェンの第九を口ずさみながら制作していたそうです。
彼は18歳の時に見たゴッホの「ヒマワリ」に感銘を受け、ゴッホになる、と画家を志しました。
画家を夢見た志功は21歳で青森から上京し、帝展や白日会展などに油絵を出品するものの、落選する日々が続き、画家仲間や故郷の家族にはしきりに有名画家への弟子入りを勧められます。
しかし師匠につけば、師匠以上のものは作れず、またゴッホも独学で絵を描いたから、と弟子入りはせず、靴直しや納豆売りなどをして、絵の勉強を続けました。
そして1928年「雑園」という油絵で遂に帝展への入選を果たしますが、実は入選前より志功は版画に心惹かれるようになり、版画家の平塚運一との知遇を得て、版画の道を選んでいきます。
その後、国画展に出品した「大和し美し」が日本民芸館に買い上げとなったことをきっかけに、柳宗悦や河井寛次郎、濱田庄司など民藝運動で知られる人々らと交流するようになり、以降の志功の芸術に大きく影響していきました。
版画家となった志功は1956年のヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展にて、日本人としては初めて版画部門で国際版画大賞を受賞し、世界にも名を知られるようになります。
その後も棟方志功は日本国内のみならず、世界の棟方として版画界に大いに功績を残した巨匠となりました。
第二次世界大戦の最中、富山県への疎開で浄土真宗に触れた志功は仏を題材とした作品を数多く制作しています。
作品では版画の他には油絵、倭画、書、詩歌など多くの傑作を残し、また画集も相当の数があり、装画等による共著も行いました。
また志功はヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の前年、1955年のサンパウロ・ビエンナーレ国際美術展には「釈迦十大弟子」という作品を出品し、版画部門での最高賞を受賞しています。
10枚もの大作であった「釈迦十大弟子」は下絵なしで板に直彫りし、一気に仕上げられた作品で、この作品について志功は「私が彫っているのではありません。私は仏様の手足となって、転げ回っているだけです」と言葉を残しました。
『門世の柵』
『釈迦一六弟子』
『風仏』
『雷妃』
『柳緑乾坤韻』
『恐山の柵』