東京出身の日本の彫刻家、版画家。本名は亀吉。
東京日本橋魚河岸の志村久蔵の長男として生まれる。後に母方の姓「戸張」を継いだ。
創作版画の草分けの一人であったが、浮世絵の技法による新版画も残している。洋風挿絵の先駆者としても知られる。
幼少の頃から絵に興味を持ち、日本銀行に就職した際にも、銀行窓口で絵ばかりを描いて上司に叱責されたりもした。また、夜間には片山潜に英語を習い、明治35年、絵の勉強をする為、渡米しナショナルアカデミーで挿絵や洋画を学んだ。その時に荻原守衛(碌山)と知り合った。萩原に誘われアカデミーを辞め、アートリーグに通い、その後帰国した。
帰国後、彫塑を学びつつ、自刻の版画を制作、色調による量感の表現や輪郭線を使わず、独自の流動感を示した孤雁の没骨調の版画は、最大の特色といえる。代表作として、「千住大橋の雨」、「化粧」、「女」、「淵」などが挙げられる。
荻原守衛(碌山)と親交が深く彼の死後、彫刻家になることを決意し、彫刻家としての活動を優れた業績を残す。
1882年 東京日本橋小田原屋魚川岸商人・志村久蔵の長男として生まれる。
1895年 日本橋区立常盤小学校高等科3年を修了。
1898年 日本銀協に給仕として採用される。
1899年 神田区三崎町キングスレー館にて堅山潜より英語を学ぶ。画家・松井昇を知る。
1901年 画家勉強の志しをもって渡米する。チァーレス・ヒントン、カノヤー、ルウランド、
ワード・メーナンド、ジョンなどに学ぶ。挿し絵をこの年から研究する。
1902年 荻原守衛を知る。アート・スチューデンツ・リーグに入り、
ロバート・ヘンライらの教えを受ける。挿し絵を勉強する。
1903年 ニューヨーク、メキタニック・インシュチュート主催展覧会において一等賞を受ける。
1905年 4月、メキヤニック・インスチュートを卒業する。
1906年 肺を病み、8月に帰国する。小田原で静養。
1907年 日暮里七面坂下に住み、徳富蘆花の『自然と人生』等の挿絵をかき、
洋風挿絵を日本に定着させようとこころみる。10月、白馬会第11回展にイラストなど出品。
1908年 荻原守衛と再会。親交深まる。『孤雁挿絵集』を出版。荻原守衛が序文を書く。
1909年 中原悌二郎、中村彝を知る。
1910年 荻原守衛の死を見とる。太平洋画会研究所彫刻部に入り、守衛の後継を志す。
第4回文展に『をなご』入選。5月、太平洋会第8回展覧会に油絵、水彩を出品。
荻原遺稿集の件でパッチに手紙を出す。
1911年 荻原守衛の遺稿集『彫刻真髄』を中心となって編集する。
1912年 病気再発。市ヶ谷朝倉病院に入院する。12月小田原、伊豆方面に天地療養する。
この頃、牧雅雄を知る。
1913年 石井柏亭らと水彩画会を創立する。
1914年 大正博覧会に『玉乗りの女』を出品する。第8回文展に『犠牲者』を出品する。
1915年 根津真泉病院に入院。第9回文展に『おんな』を出品。
サンフランシスコ博覧会に『玉乗り』『犠牲者』を出品する。
10月信州に碌山の祖母・まさの『老母寿像』をつくりに行く。
1916年 自宅画質で個展を開催する。4月、日本美術研究所に入る。
第3回院展に『杭による人魚』他2展を出品。院友になる。
1917年 9月、再興院展第4回展に『くもり』を出品し同人に推挙される。
1918年 院展第5回に『女の顔』『女』を出品する。
1919年 山本鼎らと創作版画協会を起こす。院展第6回に『隠れたる女』を出品する。
1920年 第7回院展に『虚無』『座女』『小鳥』『女』を出品する。
1921年 病気が再発。青柳病院に入院。御宿に転地する。
1924年 第11回院展に『渕』『煌めく嫉妬』を出品。『海女』を制作する。
1925年 日本橋魚河岸より震災横死者供養のための地蔵尊制作の依頼を受ける。
1926年 病床の内に過ぎる。
1927年 病床にて『碌山を憶ふて彫刻界の現状に及ぶ』を執筆。
12月9日、自宅にて死去。享年45歳。
『をなご』
『玉乗りの女』
『足芸』
『麻の葉』 (新版画)
『小田原妓楼』 (木版画)
『一二階』 (木版画)