小田原三茶人とは、いわの美術も出張買取にお伺いする機会もある神奈川県小田原市で明治期~昭和期にかけて茶道を極めた茶人3人を示した言葉です。茶道具の分類のなかでも明治の数寄者という分野は、鈍翁の焼き物や耳庵や幻庵のお茶杓で今なお評価が豊かな状況があり、数寄なお茶人には人気があるニッチな性質のため買い取りをしております。いわの美術ではお調べが難しいお茶道具の査定を、写真から無料で行っています。そこで、小田原三茶人についてご紹介していきたいと思います。
以下は小田原三茶人の名前と茶室の名前です。
益田鈍翁(益田孝)掃雲台
松永耳庵(松永安左エ門) 老欅荘
野崎幻庵(野崎廣太)自恰荘
小田原三茶人は 「近代小田原三茶人展―鈍翁・幻庵・耳庵とその周辺―」(小田原市郷土資料館分館 松永耳庵記念館 昭和63年)という展覧会の名称が初出でした。もともとは「近代小田原三茶人」という表現が正しいといいます。この展覧会は、昭和61年に松永記念館の敷地内にて、野崎幻庵の茶室であった「葉雨庵」の茶室が移転したことを契機とし松永耳庵、野崎幻庵と二人より早く小田原に移住し、2人に大きな影響を与え、近代茶道の先駆けとなった益田鈍翁を併せて取り上げた展覧会でした。なぜ「近代」が付く方が正しいのかといえば、「数寄者」すなわち茶人は、歴史的に考えて後北条氏が治めていた期間に茶の湯が隆盛したことがあり、その頃の「数寄者」と明確な分類をするために、前述の展覧会で「近代小田原三茶人」と定義することで近代の3人の茶人の姿をくっきり浮かび上がらせたということだったのだそうです。
江戸から近代の茶道へ
江戸時代には「士農工商」という身分制度があったため、茶道をする人々は豪商や大名、寺院の庇護をえた人々など特権的な階級の人々に限られていました。
しかし明治に入って身分制度が廃止されたことで、茶道をたしなむ層も明治に入り近代化が進んだ事で移り変わりを迎えることとなりました。明治維新により江戸期の従来の庇護がなくなったことから茶道は一時期下火になりましたが、明治期からは資本主義経済の発展の中で力を持ち始めた実業家の間で、茶道は西洋文化に負けない日本の伝統文化であるとして再評価されたため、勢いを取り戻します。
明治の後期には茶道具の蒐集や古美術のコレクションに伴い、茶室を建て庭園を作ることにこだわる茶人たちが出てきました。熱心な実業家の茶人はいつしか数寄者と呼ばれるようになるほど、自らの経験の中で芽生えた合理的な発想や新しい思想を取り入れ、より自由自在なありかたの茶道を追求しました。
現代の政財界の状況とは一味違い、明治期のリーダーたちはしたたかに、茶を喫しながら静かに日本で脈々と受け継がれた教養を実践していました。
茶道への熱意の高さから『利休以来の大茶人』と評された、当時の三井物産社長であった益田鈍翁は、明治39年(1906年)、小田原の板橋に「掃雲台」を営んだ事によって、多くの同時代の政治家、実業家、軍人などが小田原に邸宅や別荘を建てました。
近代茶道の終息と数寄の茶道具
しかし、鈍翁、幻庵が相次いで他界したことに加えて時勢は太平洋戦争に突入し、こうした文化も社会から自粛を要請されたことで勢いを落としました。社交としての茶の湯のコミュニケーションの中から生まれた数寄なお道具の数々は、わび・さび(侘・寂)のベースの上に独特な「やぶれ」の風情を加え、割れた水指の上に蓋をする意匠や、見立てによって珍品を取り入れる事により、文明開化以後に翻訳された西欧の哲学とシンクロするような仏教的概念をも取り込み、深みを増します。
戦後においては、ほとんどの小田原三茶人が所有した茶道具の数々は美術館に寄贈され、市場に出回ることは稀となりつつも一部の現代の数寄者には愛蔵されております。このような茶道具には共箱が付き、箱書きには道具の来歴や所有者の変遷といったたいへん貴重な情報が書かれているため、共箱の有無は大変重要となります。そのため茶道具のメール査定の際には共箱のふたとふたの裏も撮影していただくことをおすすめしております。