寛延4年(1751年)生~文政元年(1818年)
江戸後期の大名茶人で、出雲松江の七代藩主であり、松平(出羽守)宗衍の次男です。出雲藩(島根県)の七代藩主であった松平は地元島根では「不昧さん」「不昧公」と呼ばれ親しまれてきました。大名として厳しく経費節減にあたり、財政を復活させ、茶道具には惜しむことなく投資したといいます。
茶人として遠州流、千家、三斎流と数々の流儀を体得し自ら『不昧流』を立ち上げる事を成し遂げた松平不昧は別の名を好治、治郷、末央庵、宗納、一閑子、一々斎など様々な茶人号を持ちます。
幼少期の不昧は「勇気盛」と呼ばれるほど腕白で探究心が強く、「過ぎたる勇気(勇気がありすぎる)」といった周囲からの評価があり、茶道や仏の道といった「道」が付く習い事を修めるよう勧められたといいます。
中でも茶に関しては最初は遠州流の茶頭役であった正井道有に学び次に京都から千家の谷口民之丞を師として招き、研鑽を積みます。
「松平不昧伝」によるとその後、閑事庵一掌こと荒井三郎兵衛に三斎流を学ぶとともに、家臣だった高井草休(宗雪)や林久嘉、矢島金鱗らにも茶道を学ばせました。明和6年(1769年)宗衍が引退したことで襲封(諸侯すなわち大名が親の代から領地を受け継ぐこと)した不昧は、朝日丹波という武士の補佐を受けて治水、新田の開発、殖産などの藩政改革を行いました。
この政策は藩民にとっては大変厳しいもので増税された農民はますます貧しくなるなど苦難を強いられますが、財政の立て直しは無事成功します。しかし、茶道具の名品に目がない不昧は財源で巨額の茶道具を揃えるようになりました。明和7年(1770年)に『むだごと』を著し、茶道への投資は文化を築くために不可欠であると述べ、当時、遊興と化してしまっていた茶道の在り方に対する批判的な意見を主張しました。この年に「真台子」と「南坊本録」(全七巻)「並喫茶南坊続録」(全六巻)同じく「並喫茶南坊続録」の続きを追加一巻、併せて十四巻の書物を伝授され、さらに翌年の明和8年1月25日には「秘事弁書」(全二巻)を伝授されています。
歴史的な人物は、しばしば書簡(手紙)や書状を遺しています。歴史学にとって書簡を読み解くことは、調査する対象となる歴史人物が成し遂げたことを証明し、その過程や日常の様子を見る事、他の人物との交流関係を見ていくこと、筆遣いや言葉づかいから人物像を理解していく手段として欠かせないものとなっています。筆で書かれ、達筆で読むことが難しい「崩し字」も、いわの美術である程度お調べができるかもしれません。話を戻して松平不昧の場合は、最初の段落で紹介したように様々な「号」を与えられたことが書状に示されています。明和五年ごろ書かれたとされている不昧から無学宗衍( 大徳寺三百七十八世・江戸後期の僧侶)への書状には「未央庵宗納」と号があり、無学から授与されたと見えます。
「不昧」という号は安永元年、明和6年以来、不昧が参禅(座禅会へ参加)していた江戸・天心寺(現在の港区南麻布に位置する。 寛文元年(1661)に創建した臨済宗大徳寺派の寺院と考えられる)の大真大巓(だいしんだいてん)という僧が与えたものと遺されています。『無門関』という 中国,宋の臨済僧無門慧開の著の中にある『百丈野狐』という法話のなかから抜き出された言葉『不昧』でした。このことに対して不昧は句も詠んでいます。
「不落不昧」は四字熟語としては「意志が強く物欲に惑わされたり堕落したりしないこと」という意味を持ち、仏教の教えでは生そのものである因果(原因あるところ必ず結果がある道理)について考えすぎて囚われることなく、因果そのものを生のあるがまま受け止める心を持とうということを示しています。いわの美術では書簡・書状においても査定をしております。些細な内容でも貴重な史料として価値が付いてくる可能性がありますので、無料オンライン査定やお電話よりお問い合わせくださいませ。
不昧の政策によって厳しい生活を強いられた当時の庶民の苦渋はおそらく現代人の労苦を超え、一方で不昧が茶道と茶道具蒐集に熱中したことは、不昧の政治家としての評価が賛否両論である理由です。しかし、不昧が800点もの茶道具を集めて雲州名物として雲州蔵帳に記録を遺したことや、たくさんの著作を残したことは後の明治から昭和の数寄者にも大きな影響を与えました。不昧の茶道三昧の結果こそが島根県内各地に不昧流の茶道教室がいまも偏在し、島根にお茶の文化を残した深い由来となっています。不昧流は別名を石州流といい、島根のおもてなしのひとつとして受け継がれています。