荒木経惟は1940年東京都台東区三ノ輪生まれの写真家・現代美術家です。
「アラーキー」と言えば煽情的・挑発的な表情を見せる女性のポートレートや、妻であった荒木陽子を三十年にわたり撮影し続けた「センチメンタルな旅」という写真集に人気があります。現在は東京都台東区三ノ輪の位置にあたる当時の東京市下谷区で生まれ育った荒木のキャリアの始まりは、電通に宣伝用カメラマンとして入社した事でした。
昭和・高度経済成長期の谷中や三ノ輪の子供たちの姿を生き生きと映し出した「さっちん」という一冊の写真集の評判が大変よく、「さっちん」が第一回太陽賞を受賞し、荒木の名が知られるきっかけとなります。荒木経惟が23歳のころのことでした。
荒木経惟は宣伝用カメラマンとしてモデルの表情を最大限に引き出す話術と動くモデルを捉える鋭い視覚センスがあり、ただ商業的な情報伝達だけを行うのではなく、美術的な価値も持つ作品を生み出せる写真家として頭角を現しました。
ユーモアも豊富な荒木の作風はのちに梅佳代など若い世代の写真家にも深くインスピレーションをもたらしています。
荒木は、同じ電通に勤務していた青木陽子と結婚し、電通を退社後、独立を実現します。陽子は30年ほど荒木の被写体であり続け、世を去った後にも「センチメンタルな旅」のヒロインとして写真の中に生き続けています。荒木は写真家の後進育成と戦後の日本写真の美術的な価値の創造に邁進し、東松照明、細江英公、森山大道、横須賀功光、深瀬昌久らで立ち上げられた「WORKSHOP写真学校」の設立に加わりました。
1974年から1976年にかけて東京に存在したWORKSHOP写真学校は、当時第一線の写真家達による独立した学校として寺子屋方式で写真を教え、注目をあつめます。WORKSHOP写真学校は機関誌「季刊WORKSHOP」が刊行され、倉田精二、北島敬三、石川真生を輩出しました。安斎信彦、田宮史郎と荒木の頭文字から三人の頭文字から「AaT RooM」と命名した事務所を立ち上げ写真集の出版に力を入れます。
この会社は今では「写々者」という名前に変わり、今でも質の高い写真集を出版し続けています。
女性を被写体にした写真には定評があり、荒木のモデルになりたいという女性が後を絶たない状況も続きました。1990年にはアメリカの女性写真家の代表格であるナン・ゴールディンとのコラボレーション「TOKYO LOVE」においては東京の若者の力強い姿を映し出し、独自の死生観や煮えたぎる生、エロティシズムが伝わる作品の在り方を貫いた事、日本の写真家の作品を現代美術の分野に通用する価値創造の功績が国際的にも認められてきました。また大の愛猫家でもあり「愛しのチロ」など、ネコの姿を追った写真集にも人気があります。
多くの芸術家や芸能人を相手に撮影してきた荒木でも大好きだった岡本太郎を被写体にすることは叶わなかったようですが、現在では闘病生活や写真家としての試練を乗りこえ、東京中に生きる人々の最も生き生きとした表情を映し出し、作品発表を続けています。
日本でも最も写真集出版数が多い写真家の一人である荒木経惟のオリジナルプリント写真は、必ず裏に番号が書かれ「アラーキー」と鉛筆やペンによるサインがあることが特徴です。無料オンライン査定の際は荒木経惟のオリジナルプリントの全体がわかるお写真と、ピントをサインの部分に合わせたお写真が必須です。無料オンライン査定では、写真・リトグラフ・版画等の鑑定経験が沢山ある査定員の者と直接コミュニケーションできますので、お話がスムーズです。
1940年(昭和15年) 東京都台東区 三ノ輪生まれ
1959年(昭和34年) 東京都立上野高等学校卒業
1963年(昭和38年) 千葉大学工学部写真印刷工学科を卒業、電通に入社し写真部に所属
1964年(昭和39年) 写真集「さっちん」第1回太陽賞受賞
1971年(昭和46年) 青木陽子と結婚
1972年(昭和47年) 電通を退社し独立
1974年(昭和49年) 東松照明、細江英公、森山大道、横須賀功光、深瀬昌久らと「WORKSHOP写真学校」の設立に参加
1988年(昭和63年) 安斎信彦、田宮史郎と事務所「AaT RooM」(現:写々者)設立
1990年(平成2年) 「写真論」「東京物語」にて第2回写真の会賞受賞
1992年(平成4年) 「空景/近景」にて第4回写真の会賞受賞
1999年(平成11年) 織部賞を受賞
2008年(平成20年) オーストリア科学芸術勲章を受賞
2011年(平成23年) 安吾賞を受賞
2013年(平成25年) 毎日芸術賞特別賞を受賞