数寄者(すきしゃ)とは 数寄とは風流・風雅に心を寄せることを表します。
「数寄」に「者」(ひと)を加えて風雅なことに心をよせるひとを「数寄者」といい、近世以降は茶湯:ちゃとう(意味:仏前・霊前に供えるお茶)と同じような意味で用いられるようになったことに応じて、茶の匠についても「数寄者」と呼ぶようになりました。
16世紀の初めに金春禅鳳(こんぱるぜんぽう)は『禅鳳雑談』という書物の中で
『すべての諸道(道がつくあらゆることがら)は、習いと数寄と器用と三也、この三揃へばいずれの道も上手の名を得る也、一闕(いちかく)れば申分(もうしぶん)也(なり)この三つのうちにては数奇(寄)肝要ならんか』
訳「すべての「道」がつくあらゆる事柄は、習いと数寄(すき)と器用で成り立つ。この三つがそろえばいずれの道も上手という評価を得て、一つでもかければ満ち足りていないようなこととなる。この三つがそろうには、数寄が肝要なのではないか」
と遺しています。
この場合の数寄は、茶に心を強く惹かれていること、とても好きで執着している心があることを基本とすることを意味していました。
ジョアン・ロドリゲスというポルトガル人の司祭が著した日本語の歴史を研究する人向けの辞書『日葡辞書』(にっぽじしょ)にも「数寄者」の項目があり、「茶の湯を行い、その芸道に携わるもの」という解があり、ヨーロッパまで茶の湯や数寄のことは知られていたということがわかります。
茶人の山上宗二は『山上宗二記』のなかで、茶人を
という三段階に厳密に分類し定義しました。
戦国時代から安土桃山時代にかけての山上宗二と同時代の名人には
の三名が名を連ねていました。
それに従い、数寄者の基準は詫び数寄を加えるとやや独りよがりやお高く止まったようなといった見受けられますが、ここでは山上宗二が「数寄の師匠をして世を渡るは茶の湯者」と定めたことを含めて、名人に至るものはすべて数寄者として考えて良いということになっています。
千利休は山上宗二の死にあたって天正19年『多聞院日記』に「数寄者の宗益(易)今暁腹切り終わんぬ」と書きのこしました。
数寄者の基本的な条件としては詫び数寄に
「一物も持たず」とありますが、それはあくまでも精神的な姿勢について表した言葉であり「茶具足(茶道具)を奇麗にして、いろいろな茶の具足を心の及ぶほどたしなみ、持つ人」という『正徹物語』のなかにある定義が文献の中では最も具体的なものでした。そのような「数寄者」の在り方は現代まで貫かれます。
明治・大正時代には
といった小田原三茶人たちや、政界・財界の富裕な人々が「数寄者」として名を残しました。