400年の歴史をもつ御用絵師の門閥である日本画の狩野派。
15世紀の室町幕府の時代に始まり、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らの権力者に用いられ、血族や師弟関係によって維持され続けた日本絵画史上最大の漢画系の画派です。
日本画には「大和絵」と「漢画」という大きな流れがあります。「源氏物語絵巻」などのような平安絵巻といった様式で描かれたものが大和絵であるのに対し、鎌倉時代、禅僧により、日本に伝来した水墨画が漢画と呼ばれました。
日本画の狩野派は、漢画と大和絵を融合させることで、一流画派としての画風を確立させました。
狩野派といえば煌びやかな金箔屏風のイメージですが、それらすべては水墨画をベースとして、着彩し、金箔などをはったものです。
描く画題も唐物(中国)由来のものが多く、豪壮で格式ばったところが武家に好まれ、大和絵を融合させ、勇壮でスケール感に溢れる力動的な表現は、戦国武将の織田信長や豊臣秀吉らから高い評価・信頼を得て、室内を飾る障壁画をつぎつぎと手掛け、時代の寵児となりました。
狩野派は、室町幕府の御用絵師として活動した狩野正信を始祖とします。狩野正信は漢画に大和絵の手法を取り入れ、武家の好尚に合った平明な様式を創出しました。
現存する狩野正信の作品には、中国の故事を題材にした「周茂叔愛蓮図」があり、この作品は、後の狩野派の進むべき方向をも決定づけた代表作と見なされています。
狩野正信の長男2代目・狩野元信は、新しい絵画様式や工房の経営など、狩野派発展の基礎を築きました。狩野元信の作品は、漢画系の水墨画法を基礎としつつ、大和絵系の土佐派の様式を取り入れ、書院造建築の装飾にふさわしい日本的な障壁画様式を確立した点に特色があるといわれます。
また、狩野元信は絵画における「真体・行体・草体」という画体の概念をつくり、近世障壁画の祖ともいわれます。代表作には重要文化財の四季花鳥図、禅宗祖師図などがあります。
狩野元信の3人の子のうちの1人、直信は、道名の狩野松栄の名で広く知られ、室町~桃山時代に活動しました。狩野松栄の代表作に巨大な「涅槃図」(大徳寺所蔵)がありますが、狩野家の中では、地味な存在となっています。
桃山時代の狩野家の日本画の代表する人物といえば、狩野正信の孫・狩野永徳です。
織田信長・豊臣秀吉政権下で重用された城郭建築に豪放華麗な障壁画を制作しました。画面を飛び出すような勢いのある巨木表現など、大画面主義に特徴があり、代表作には国宝・聚光院障壁画、洛中洛外図などがあります。
江戸時代に入ると、狩野永徳の孫・狩野探幽が徳川幕府の御用絵師となり、最大の画派組織をつくり上げ、画壇における狩野派の地位を、ますます不動のものとしました。
狩野探幽は、永徳が築き上げた戦国武将好みの絢爛かつ豪壮な桃山様式から、余白を有効に使い、画面の中に品良く納まる瀟洒な構成と余白を存分に生かした小気味の良い軽妙で詩情性豊かな表現を用いて独自の美の世界を確立しました。
江戸幕府の御用絵師として、その稀有な手腕を発揮した障壁画に代表作は多いものの、水墨を用いた掛軸、絵巻物などの小作品でも傑出した才能を発揮し、多くの作品を残しました。 代表作には、重要文化財・二条城障壁画、名古屋城障壁画などがあります。
江戸時代の狩野派は、世襲制による狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していました。その多くの弟子たちには、得意な才能を発揮する画家たちもおり、狩野派に学びながら、個人的な画風を作った画家としては、久隅守景、英 一蝶、河鍋暁斎、狩野芳崖らがいます。
日本美術史を代表する職業絵師集団としての狩野派は、その後ろ盾であった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えました。