日本の近代、すなわち明治時代以降は、西洋絵画に対して初めて「日本画」という言葉が生まれた時期です。
明治時代初期は、江戸時代から続く土佐(大和絵)、狩野(日本絵画史上、最大の画派)、北宗(室町水墨画)、南宗(文人画)、円山四条(円山応挙が開いた円山派と呉春が開いた四条派の総称)、浮世絵などの諸派に加え、明治維新の際に洋画へ転向したものなど、様々なスタイルの絵画が存在しました。
明治20年には官立の東京美術学校(現:東京芸術大学)が開校し、その第一期生には、横山大観、下村観山らがいます。
横山大観らは、旧来の師弟関係による教育ではなく、それまでの水墨画などにはみられない、実験的に新しい表現方法を試みるなどし、次第にその表現方法が近代日本画のテキストとなっていきました。
一方で、東京美術学校校長の岡倉天心が排斥させるなどの事件が起こり、日本美術院(新派)が誕生しました。
明治40年には、日本画の新派や旧派や洋画などの近代美術が一堂に会する最初の官展・文部省美術展覧会(文展)が始まりました。文展では、優れた作品に賞を出しましたが、それは、新派と旧派の対立を悪化させることとなり、当時、文展の審査員をしていた横山大観らは審査員をやめ、岡倉天心没後に衰退していた日本美術院を再興し、院展(日本美術院の公募展)を組織しました。
大正期の日本画は、いろいろな個性が開花し、近代日本画の一大潮流を形成した時期です。
明治時代末期には旧派の人気は落ち、画壇の主流は新派である院展の近代日本画が主流となりました。次第に、洋画壇の様々な表現方法と同調するようになり、西洋思想を反映した、画家の個性を主張する時代となりました。横山大観の屈原(厳島神社)に現されたロマン派的表現や、今村紫紅が後期印象派のゴッホやゴーギャンの画風を日本画に生かし、また歴史画を主体とした安田靫彦、前田青邨などが新古典主義的な表現を示すようになりました。
日清・日露戦争後は、岸田劉生の洋画的細密描写の手法を速水御舟、小茂田青樹らが日本画に取り込み、写実性を追求するなど、西洋の写実性を学び取ろうとする動きがこの時期には期せずして起こりました。
江戸時代中期に円山応挙、松村呉春などが円山四条派を興し、その流れは明治の京都画壇へ続いており、早くから京都府画学校(現:京都市立芸術大学)が創設されました。
また、明治時代の京都では、幸野楳嶺らが京都青年絵画研究会を設立します。東京中心に展覧会が開催されている中で、内国勧業博覧会が京都で開催されたのをきっかけとして、竹内栖鳳の四条派を中心に京都画壇の諸派が独自の近代化を進めていきました。
ヨーロッパに渡った竹内栖鳳は、西洋画を積極的に取り入れ、その指導のもと、村上華岳、土田麦僊らの近代日本画を代表する画家が育っていき、ヨーロッパの世紀末芸術や後期印象派の影響を受けて、新しい個性を開花していきました。
【東西の美術学校の主な日本画の出身者】
東京美術学校(現:東京芸術大学)
横山大観
下村観山
菱田春草
東山魁夷
杉山寧
高山辰雄
加山又造
平山郁夫
京都府画学校(現:京都市立芸術大学)
村上華岳
土田麦僊
徳岡神泉
山口華楊
小野竹喬
福田平八郎
上村松園