仏教美術は、6世紀に百済から仏教が伝来した時に、日本に渡来しました。仏教美術のひとつである仏教絵画とは、仏様の像や経典に基づき、釈迦の物語や仏教の教義を扱った絵画です。個々の寺社の由来や、本尊の霊験、高僧の伝記や肖像画なども含まれます。
今回は、仏教絵画のうち仏涅槃図について説明します。
涅槃仏(ねはんぶつ)は、釈迦が入滅する様子を仏像で表したもので、主にタイの寺院などでみられる右手を枕にして横たわった寝仏を指しています。
仏像で表されたものが涅槃仏ですが、釈迦の入滅の様子を絵画的に描いたものが、仏涅槃図(涅槃図)と呼ばれ、宝台上に横臥する釈迦を中心に、菩薩や弟子、会衆、動物等が釈迦を取り囲み、死を嘆き悲しむ情景を描いています。
仏涅槃図では、基本的に、釈迦の頭は北向き、顔は西向きとされており、これが後に、一般の人が亡くなった時の”北枕”とされる由縁となりました。
仏涅槃図は、平安時代に始まり、鎌倉時代に形式が完成したといわれています。仏涅槃図は主に僧侶、貴族、信者が鑑賞者で、寺院に掲げられ、信仰の対象とされます。
仏涅槃図は平面的な表現のやまと絵で、平安時代にまでは横長の形式で、鎌倉時代以降は禅宗文化の発展とともに、縦長の俯瞰図が普及しました。
仏涅槃図に描かれている決まり事
釈迦は、35歳で菩提樹の下で悟りを開き、その後45年間、インド各地を行脚して仏法を説き広めました。80歳の時、純陀という高弟が布施として差し上げた茸(きのこ)が原因で釈迦が中毒となり、体調を崩し、インド北部の拘尸那竭羅(くしながら)の跋提河(ばつだいが)のほとり、沙羅双樹のもとで亡くなられました。
その模様が経典「涅槃経」に記されており、臨終の場所である跋提河畔での様子が仏涅槃図に画かれています。
満月
釈迦入滅の夜が満月であったため、必ず満月が描かれています。
4組の沙羅双樹
宝台をかこんで生えているのは沙羅の木です。同根から2本ずつ沙羅の木が生えたもので、弟子は釈迦の命により4双(2本×4)の沙羅双樹の間に死の床を用意しました。
花の季節ではないのに、入滅の際、突然、沙羅の花が咲いたと伝わっています。また、足元の4本から枯れだし、葉の色が変色していますが、これは仏教的に四枯四栄という言葉で表されています。
生母摩耶夫人
釈迦の生母・摩耶夫人は、釈迦を生んで7日目に亡くなり、忉利天(とうりてん)という天にいましたが、釈迦が入滅したことを報告され、錦袋に起死回生の霊薬を持って、阿那律尊者の先導で雲に乗り、駆け付けます。
頭北面西右脇
涅槃とは、煩悩が消滅して悟りを完成させた境地を意味し、 釈尊の死を「涅槃に入る」と表現します。 画面は中央に、宝台に横たわる釈迦が配置され、「涅槃経」の記述に基づき、頭を北に、顔を西向きに、右手を枕にして横たわる「頭北面西右脇」の姿で描かれます。全身が金色に輝いているのは、涅槃の境地に入ったことを意味します。
会衆と鳥獣
自分の布施物が釈尊を中毒させたことを後悔して、代りの食べ物を差し出している純陀や、釈迦の死を歎き悲しんで気絶してしまった釈迦の十大弟子の一人・阿難などの弟子のほか、村人や多くの動物が釈迦の死を悲しんで集まっています。
現存最古とされる平安時代の「応徳寺仏涅槃図(金剛峰寺)」では、獅子が一頭だけ描かれていますが、鎌倉時代以後は牛や象、猿、鳥獣などが描かれ、動物の数が増えています。