日本初の磁器である伊万里焼は、1610年代に佐賀県有田を中心とする肥前国で創始されたと伝わっています。
磁器は、中国では紀元前から原初的なものがつくられており、後漢時代(25~ 220年)には、既に本格的な磁器が焼かれていました。
日本で中世までつくられていた焼き物は陶器であり、磁器は輸入品に頼っていました。
有田で製作された磁器は、近隣の伊万里港から国内各地に出荷されたため、当初から「伊万里焼」の名で親しまれていました。
通説では、伊万里焼の始まりは、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592~1603年)で出兵していた鍋島直茂が、多くの朝鮮人陶工を連れて帰り、その陶工達が有田の泉山で磁器の原料となる陶石を発見し、窯を築いて磁器焼成に成功したとなっています。
草創期の伊万里焼は、唐津焼系の灰釉陶器を製作する窯で、陶器と磁器を併焼されたと伝わっており、当時の古窯としては、西有田町の原明窯、有田町の天神森窯などが知られています。
草創期には、陶器と磁器が併焼されていた伊万里焼が、本格的に磁器中心の生産体制となったのは、寛永14(1637年)以降です。「山本神右衛門重澄年譜」によると、伊万里焼の有田が磁器の窯場として急速に発展したのは、佐賀鍋島藩による「窯場の整理・統合政策」が施行されたことによるとされています。
陶器業者が、窯焚きに使う薪材確保のために山林が切り荒らされるようになったことから、鍋島藩は、木の乱伐防止を目的とし、日本人陶工826人を陶磁器生産から追放して、朝鮮人陶工を中心に有田の窯場を13か所に整理・統合しました。
この政策を転機として、有田で唐津系灰釉陶器がつくられることはなくなり、磁器中心の生産体制となりました。
伊万里焼の草創期から1630~1640年代頃の染付磁器が、一般的に「初期伊万里」と呼ばれています。
初期伊万里は韓国・李朝系の窯業技術を基礎とし、中国・景徳鎮窯の古染付に用いられた文様や、筆法などが併用され、そこに伊万里焼の陶工たちの創意が加えられた美的特質を有しています。
また、初期の染付を代表する図柄のひとつに「吹き墨のウサギ」と呼ばれる、型紙を置いてその上から青を吹きかけるという素朴な吹墨技法がありますが、こうした初期伊万里の染付作品は現存する数が少ないため、愛好家の間で特に珍重されています。
1940~1950年代になると、伊万里焼の生産量は急激に増大します。この頃の伊万里焼は、初期の李朝系の意匠や技術から脱却し、新たに中国の意匠・技術を導入するようになります。
初期伊万里は釉薬がたっぷりとのせられ、厚ぼったいのが特徴でしたが、この頃の伊万里焼は、中国磁器技術の影響により、薄くてシャープな造形力と鮮やかな上絵付の技法が取り入れられた洗練されたものとなっていきました。
1650~1670年代の伊万里焼には「染付竹虎文大皿」にみられるように、躍動感に富んだ作風が好まれました。続く1670~1690年代の伊万里焼は、完成期を迎えます。その代表作といわれる「染付粟鶉文蓋物」は、伊万里焼が生み出した染付磁器の頂点というべき作品といわれています。