京都を代表する伝統工芸品のひとつである「京焼・清水焼」。古清水と総称される初期京焼の後、江戸時代中期には、雅な色絵の野々村仁清、尾形乾山が登場して京焼の黄金期を迎えます。
その後、幕末にかけての後期京焼の時代には、奥田頴川、青木木米、仁阿弥道八、永楽保全などの名工が数多く生まれ、第2の隆盛期を迎えました。
奥田頴川は、江戸時代中期から後期にかけての陶工で、中国風の意匠を取り入れた色絵磁器を創始し、「京焼復興の祖」とも称されています。
奥田頴川の祖は中国頴川県出身と伝えられており、本姓を号としていました。
奥田頴川が作陶を始めたのは30歳頃からでしたが、のちに数寄屋者の間で評判であった中国明時代の赤絵磁器に着目し、文化・文政年間(1804~1830年)頃に呉須赤絵、古赤絵、古染付などの中国写しなどの磁器づくりを完成させました。
奥田頴川が最も得意としたのが、呉須赤絵です。 中国の呉須赤絵は大皿や鉢などに限られますが、奥田頴川は花鳥・魚文・獣文をあしらった呉須赤絵写しの茶陶や文房具、食器、置物など多彩な器種を手掛けました。
また、奥田頴川は交趾にも優れ、青銅器を模した大型香炉なども製作しました。
奥田頴川の門下から青木木米、仁阿弥道八、欽古堂亀祐らの名工を輩出しました。
奥田頴川の門下の俊才・青木木米は、もとは祇園新地で茶屋を営み、30歳過ぎから作陶を始めました。幼名を八十八といったことから、木米と名乗りました。
青木木米は、文化2年(1805年)、京都粟田口に築窯し、青蓮院御用陶工となりました。翌年には金沢に赴き、春日山窯を興し、色絵や青磁を焼きました。
青木木米は、帰京後、京都や大阪の文人らと交流を深め、最盛期を迎えます。文人らの煎茶趣味の流行に呼応して染付、青磁、南蛮写しの煎茶道具を中心に作陶しました。また、書画詩文にも長じ、独特の世界を確立しました。
さらに、青木木米は型物成形による煎茶道具の量産化も行いました。青木木米の型物は、奥田頴川門下の先輩にあたる欽古堂亀祐から学んだといいます。 欽古堂亀祐は、もとは伏見の人形師で、人形の土型を利用して青磁や交趾写しの優れた作品をつくりました。
欽古堂亀祐は青磁の改良に努め、さらに丹波王地山焼、紀州瑞芝焼などの藩窯に赴きました。欽古堂亀祐の著書に、磁器を主とし、窯式、窯積、素地、釉薬の調合、青磁、交趾の陶法などについて具体的に記した「陶器指南」がありますが、この「陶器指南」の刊行という手段を通じて、京焼の技術は国内に流布しました。