明治時代から昭和にかけて活躍した日本画家です。
有名なTV番組で屏風絵「初雪」が紹介されていたのでご存知の方も多いのではないでしょうか。
伝統的な日本画の屏風絵では、左右で季節の移ろいが描かれていることが多く、一つの屏風絵で同一の季節が描かれる事はほとんどありません。
左右一体で同じ季節を描くと単調になってしまいがちですが、
秀畝の「初雪」は全体の構図やモチーフで“静と動”を明確に描き分けることで画面に変化をつけ見る人を飽きさせません。
そんな秀畝は山水画・花鳥画を得意とし、多くの作品を残しました。
作品は描写力に優れ、細かく描き込まれた動物達は力強く生命力にあふれ、今にも動き出しそうなほどです。
今回は、そんな井上秀畝についてご紹介します。
1874年(明治7年)に長野県の紙商兼小間物屋の次男として生れました。
商いを家業としている池上秀畝の実家ですが、実は2代に渡る画家の家系でした。
祖父は高遠藩御用絵師に狩野派を学び、自らの画論『松柳問答』を刊行した池上休柳。
父親は池上昇華(四条派画家・池上秀華)といい、岡本豊彦から四条派を学び、日ごろ俳句や短歌などを嗜んでいたそうで、祖父や父の影響で秀畝は4歳頃から絵に親しんでいたようです。
このような環境で生まれ育った為、絵の描き方は自然と身に付き、家の商いを手伝う傍ら暇を見つけては自然を写生する毎日でした。
幼少期から描き始めたその腕は14歳の頃には既に優れた作品を残している程で、自らの作品に「國山」の号を用い、「圀山」の印を押していました。
そして1889年(明治22年)15歳になり小学校を卒業すると同時に上京し、当時無名だった荒木寛畝の最初の弟子となり文人画を学びました。
さらに1905年(明治38年)には同じく荒木寛畝の弟子であった大岡緑畝女子と結婚しました。
以来、多くの出展を重ね文展で3年連続 特賞を受賞し、以後旧派を代表する日本画家として出品し続けその名を上げました。
1919年(明治52年)第1回帝展では無鑑査の"推薦"となり、1933年(明治66年)には帝展審査員を務めるなど活躍しました。
師である荒木寛畝は、海外に興味を示し日本画を描く中で油絵を極めた人で、後に洋画の技法を日本画に生かした花鳥画を描き独自の作風を築いた人です。後にシカゴ、パリ、セントルイス万国博覧会の展覧会で受賞するなどして世界的な評価を受けています。
荒木寛畝は日本画家にしては珍しい程、写生を重要視していたようで弟子に対しても写生を丁寧にするようにと、常日頃から口を酸っぱくして言っていたそうです。
秀畝の作風は、このように寛畝の教えを受ける中で日本画でありながらも写実的な、どことなく西洋画の雰囲気を持った作風となったのでしょう。
ここで同じ門下の十畝と秀畝を比較してみましょう。
共に写実的に対象を描きますがその趣きは全く違い、写生による世界の捉え方の違いが垣間見えます。
十畝は日本画伝統の余白を生かした「間」の取り方をし、見る人に想像の余地を与えます。
そして伝統的な描画法を重視しているためか、やや平面的な印象を受けます。
一方、秀畝は西洋画的な繊細な描き込みにより華麗な花鳥をより鮮やかに、立体的に描き現実に忠実に描いています。対の作品である場合はモチーフが向かい合う形となっていたり、動きを感じる構図も特徴的です。
「初冬」「峻嶺雨後」「沼の雨」「渚の月」「秋雨」「老秋」など
そんな池上秀畝の作品は人気が高く、高額でのお買取りが期待できます。
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