少女の版画作品で人気を博した河野薫の版画作品を積極的にお買取り致しております。
ご依頼がございましたら弊社いわの美術までご連絡ください。
専門の査定員がお品物を拝見させていただきます。
河野薫は1916年、北海道で三男一女の長男として生まれる。銀行に勤務していた河野の父は書家(号煙畦)でもあり多才な人でありました。
小学校に上がり、河野の通う小学校の美術教師として務めていた成田王泉と成田に絵の教えを受けていた斎藤清と出会います。
この成田王泉との出会いがきっかけで後に著名な版画家となる人々との縁が結ばれ河野は大きな影響を受けていきます。
小学校では国民新聞社主催全国小学生成績品展覧会で図画優秀賞を獲得し、中学に進学した後は、第六回道展に出品した油彩画作品「富岡町風景」で初入賞を果たしその才能の片鱗を見せました。そしてこの頃成田から棟方志功を紹介されます。
絵を描くことに没頭していた河野は家族が父の転勤のため居を移した際も自身は成田のもとに下宿し美術学校への進学を目指し日夜制作に励んでいました。父もその才能を認めており、河野の意思を尊重し美術の道へ進むことを応援していました。
棟方から激励の手紙も送られて河野はさらに意欲的に制作・美術展への出品を続け中学卒業後に画家となるべく上京を決意します。
上京後は川端画塾で学びますが、下に兄弟が多いことから画家としての道を断念し斎藤清の紹介で出版社野ばらに入社します。
野ばら社は児童向け図書や教師の教材作成用の略画や図案集などを主に手掛ける出版社だったので、培ってきた美的感覚を生かし表紙、文字デザイン、装丁などの多くを手がけました。
出版社で勤務しながら制作を続け1944年第13回日本版画協会展に初入選し、野ばら社社長の遠縁であった良子と結婚、1945年には長女を授かります。
しかし第二次世界大戦争が勃発。制作は中断され河野にも召集命令が下ったため色丹島につくも日本軍は敗北を喫し、シベリアで抑留生活を送り強制労働を課せられてしまい家族のもとへ戻ることが出来たのは4年後の1949年のことでした。
帰国後は戦争体験から娘の存在に感謝し平和を祈り少女がモチーフの作品の制作を発表すると日本版画協会展に再入選、さらに国図会展に初入選を果たし日本版画協会会員に推薦されると斎藤からの誘いもあり本格的に版画家を志し1954年に家族を連れ再び上京します。
当時、棟方や斎藤らが国外で評価され始めており河野もその流れを汲んで海外向けの版画作品の制作に追われていきました。
以後海外での展覧会への出品・展示を重ねていくうちにその作品は高く評価され、日本以上に海外での認知度を高めていきます。
成田によってつながった棟方や斎藤らに影響を受け独特の表現を突き詰めた河野は惜しくも49歳の若さでこの世を去ることとなりました。
「一人でも多くの人が僕の作品を好きでいてくれたらいい」と語った河野の作品は世界中の人々に愛されています。
河野は葛飾北斎に憧れを抱いており、浮世絵技法を刷師と共に研究していました。
伝統的な木版技法に加え、版木を平のみで削り装飾的なリズミカルな線を刻む技法は河野独特のものです。
戦争を経験したことから平和や娘への思いが作品には映し出されるように、その作品はあたたかい愛情にあふれている。河野の作品の特徴的なシンプルで絵画的な作風は海外での評価が高く、また色彩についても同様にモノクロや1,2色のみ(中でも赤を基調としたものが多い)を効果的にアクセントとして用いています。
モチーフは動物、植物、風景など様々ありますが、最も多く描いているのは少女であり人気も高いため少女がモチーフの作品は高額でのお買取りが期待できます。
河野薫の作品は中古市場でも人気が高く高額でのお買取りが期待できます。
お買取り金額は作家・モチーフ・状態・大きさなどに加え、時期や相場によって変動いたします。ご売却をお考えでしたら一度いわの美術までご相談ください。
詳細がわからない場合もお写真をメールやLINEまたは郵送で送っていただければ
専門の査定員が無料で査定いたします。