現在いわの美術では加山又造の絵画の高価買取に力を入れています!
加山又造は伝統的な様式美を現代的な感覚へ昇華し、高く評価された日本画家です。
常に新しい挑戦を続け、戦後失われつつあった伝統と近代を融合させた加山は
その功績を称えられ2003年に文化勲章を受章しています。
そんな加山又造の作品をお持ちでご処分をお考えでしたら
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1927年京都で西陣織の図案家(和装図案)を生業とする家庭に生まれます。
父の仕事を見て過ごすうちに、自然と絵を描くようになり13歳で京都工芸学校(現・京都市立銅駝美術工芸高等学校)に入学。
17歳で東京美術大学(現・東京藝術大学)へ進み、着実に画家としての道を歩んでいきます。
当時は戦中であったため在学している間に学徒勤労令で山口県へ赴いた期間もありましたが、終戦を迎え1949年に東京藝術大学を無事卒業すると山本丘人に師事します。
1950年に『動物園』『自画像』が第二回春季創造展で初入選を果たし研究会賞を受賞。
1955年28歳のときに初めて個展を開催し、1958年には第2回グッゲンハイム賞国際美術展に出品するなど日本のみならず海外へと活躍の場を拡げます。
展示会を積極的に行いながら、新たな技法の取得やリトグラフの制作などにも取り組み表現を発展させていき、1966年には多摩美術大学教授に就任します。
1973年第5回日本芸術で大賞受賞し、1980年には「月光波濤」で芸術選奨文部大臣賞受賞するなど誉れ高い賞を次々と獲得し高い評価を受けました。
1988年には東京藝術大学教授にとして就任し、指導の傍ら日本を代表する画家として多くの依頼を受けていました。中でも日本中国文化交流協会常任理事に就任し、新東京国際空港(現・成田国際空港)第二旅客ターミナル出発ロビーの陶板壁画はその象徴的な作品のひとつといえるでしょう。
また、1996年に大英博物館日本ギャラリーで個展を開催。
京都の天竜寺法堂の《雲龍図》が完成し文化功労者として顕彰、2003 年に文化勲章を受章しますが、翌年2004 年に惜しまれつつも76歳で逝去されました。
常に新しい挑戦を続け戦後日本画の新境地を切り開いた加山の作風は、琳派を思わせるような装飾的な作風として知られています。
屏風絵や水墨画などの絵画のみならず陶器や着物、BMW社の依頼により車にもデザインを施していたりと表現の幅は広く、また制作時期によりモチーフや表現手法も多様な変化が見られます。
以下では大きく「初期・中期・後期」と3つに分けてそれぞれの時期の特徴をご紹介いたします。
< 初期:1940年代~1960年代 >
東京藝術大学在学中は上野動物園で動物の写生をよくしていたため、動物をモチーフとした西欧の近代絵画の手法を用いた実験的な作品を多数制作しています。
ラスコー洞窟の壁画やシュールレアリスムや未来派など西洋絵画の造詣手法により描かれた動物達は美しく生命感にあふれ、大きな注目を浴びていました。
動物や植物を多く描きましたが、中でも猫好きであった加山は猫を多く描いています。
< 中期:1960年代~1980年代 >
1960年代半ばからは伝統的な様式美や装飾美を独自の感性で描くことに挑戦し、華やかな屏風画を、1970年代には当時日本画壇では珍しかった裸婦画の制作に取り組みます。
「幽霊のような人間を描きたい」と話し女性美を追求した加山の裸婦画は、日本画の繊細な線描と近代的感覚により、肉感的でありながら幽玄な神秘性を併せ持ちます。
< 後期:1980年代~2000年代 >
80年代からは画業の集大成として水墨画に挑戦し、技術的には染色手法からエアブラシまであらゆる技法を駆使しつつ制作を行いました。
その他にも陶板壁画や内装デザイン、工芸的な制作など幅広く挑戦しており、最晩年にはPhotoshopなどを駆使したCG作品にも取り組んでいました。
大和絵や琳派の技法を鋭い、戦後の日本画壇に新風を吹き込んだ加山又造は、
伝統的な絵画に学びながらその卓越した技法を構想力によって日本画の新たな可能性を切り開きました。BMW社からの依頼によりアート・カーの制作を行うなど、絵画のみならず陶器や壁画など表現方法や技法も多岐に渡ります。
いわの美術では加山又造の作品以外にも掛軸・油彩画・版画など様々な作品の高価買取に力を入れております。ご自宅に眠っているご不要なお品物がございましたら、ぜひ買取実績の豊富な弊社にお譲りください。
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